『キングスマン:ゴールデン・サークル』★★★★☆
制作発表から一年半ぐらい、ずっと楽しみにしていた映画というのも珍しい。ようやく観てきての感想は「満足」。深化でも変化でもなく、きちんと「シリーズものの映画」を作ってきた、という印象だった。
実を言うと、「新しさ」はほとんどない。キングスマンの一作目は当然、それまでに存在しなかったスパイ映画を作り上げたという意味で新しいのだが、本作は全作で味わった興奮を、別の食材、ないしは味付けを使って作り上げた、という感じ。極端なことを言えば、『寅さん』的なことなのだと思う。正確には往年の『007』的。
最近の映画は、クレイグ・ボンドしかり、ダークナイト3部作しかり、シリーズ作品の前提となる構造に作品が触れてしまうことで驚きと興奮、新味をもたらしているものがたくさんあると思う。しかし実はそれは、諸刃の剣にもなり得る。シリーズの構造そのものを破壊してしまうと、「続けられなく」なってしまうのだ。
続けられるシリーズものというのは、「こうなって、こうなって、こうなる」という枠組みが明快なもの。ゴジラとか、ドラえもんとか、パーツを置き換えていけばどこまでも続けられる。もちろんいずれはマンネリになるのだが、元々シリーズものとはそういうものだった。それを壊すことで得られる快感(007の成長、そして過去の物語など)は刺激的なのだが、破壊の先には荒野しかない。ダークナイトシリーズは続けられないし、クレイグ・ボンドも次はせっかくのハッピーエンドを破壊するしかなくなりそうである。
だからこそ、「世界を壊そうとするおそるべき悪漢を退治するキングスマン」という枠組み自体は微動だにしないし、やってることは実はそんなに変わらない。今回行われたのは、一作目で超人として描かれたハリーの人間性の描写、そして、前作でようやく一人前のエージェントになったエグジーの本格的な活躍、という部分。ハリーとはどんな人間だったのか、描かれなければならなかった。登場人物の人間関係の変化はしっかりと描かれていく。そして、徹底して詰め込まれ続けるアイディアとギャグの連打。
悪役のやっていること自体はほとんど1作目と変わらないのだが、1点、1作目と変わった点として、現実とも同様だが「アメリカ大統領」がある。端的に言うと「悪い子とをした奴は、悪い人であり、罰せられて然るべきですか?」ということを上手く描いていると感じた。言い換えると「不寛容」ということ。「悪い奴は悪い奴だ。罰してナニが悪い?」というところをもっと突き詰めるとメッセージ性は強められただろうな、と思う。ただ、その説教臭さは、この作品には似合わないだろう。積み上げられた麻薬中毒患者入りの檻が、ニューヨーク辺りの摩天楼そっくりに見える、という皮肉は素晴らしかった。
最初はちょっと心配だったエルトン・ジョンの特別出演も、大いに笑わせてくれた。ストーリーも「次はどうすんねん」というところで終わっている。しかし次回作は……たぶん、悪役に工夫を凝らさないともたないだろうな、という気がする。必ず観に行くけれど。