『勝手にふるえてろ』★☆☆☆☆
松岡茉優が歌う!泣く!叫ぶ!映画『勝手にふるえてろ』予告映像
久々の邦画。なかなか厳しかった。原作は未読。
邦画でターゲット層が若くなるにつれて演技がわざとらしくなるのは、何か要請されてのことなのだろうか? 私は今まで生きてきて、こういう早口に自分の主張を並べ立てるしゃべり方、街中での絶叫、一般企業のオフィスでの些細なきっかけからの大喧嘩、独り言で自分の行動の意味を説明しながら生活している人、など非常識な行動を取る人物というのを観たことがないので、どうしても作品に入り込めなくなってしまう。
もちろん、この作品の主人公が意図的にコミュ障で普通とは違う方法で周囲の人と繋がりあう(繋がっている気になっている)という狙いで作られている作品だということは理解出来る。言ってみれば「ファンタジーパート」が存在している作品であって、その部分がどれだけ非常識であっても全く問題はない。
ただ、そうした常識外のことをやるということは、それ以外の部分は対照的に生々しく演出するべきだと思うし、それによって非現実的な行動が「非現実ですよ」と断りを入れられるのだと思う。しかしこの作品では、主人公の「妄想世界」以外のパートでも、非常に芝居がかった演技・セリフが跋扈していて、これは主人公の妄想なのかそれとも現実なのかが、ほとんど区別が出来ないのだ。
「十年間妄想内で片思いをし続けてきた人」を主人公にするコメディを作るのであれば、「妄想内で幸福な彼女」を描き、それをきちんと破壊してから、そこから現実を受け入れるのか、それでも再び妄想の世界に帰って行くのか、向かう先を描くべきだと思うのだ。実際、途中で彼女が現実を見据える唄のパートにはカタルシスがあって面白かった。
本作ではどのパートでも、現実と彼女の妄想の間を常に行き来しながら、どっちつかずの状態が常に続く。確かにリアルに考えればそんな風になる・・・・のかも知れないが、そのちゅうぶらりん状態のせいで主人公に感情移入出来るポイントが見つけられないまま最後まで至ってしまったのだ。観客は彼女の側に身を置けばいいのか、彼女を観ている周囲の友人や彼氏の側から観ていればいいのだろうか。
ただ、この作品を観た女性からは「凄く主人公に感情移入出来た、凄いわかる」という評価を聞いたので、主人公に近しい環境にある人には大いに楽しめる作品なのかも知れない(どんな作品でもそうだとは思うけれども)。もう少し開けた作りには出来なかったのかなあ、と思った。