『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(実写)』★★★★☆
アニメ版ではなく、原作の実写版。時間がなかったので短い作品をと思い選択。最初は苦手な作品かと思ったが、この短さならではのじわじわくる魅力があった。
「少女を愛でる作品」という系統は存在する。特にアニメ映画では多く、そうした作品に登場する少女(美少女)は、「意志を持っているとは思えず」「男が喜ぶタイミングで微笑み」「セクシュアルアピールを無自覚に行い」「身体も成熟しているがそれにも気づいておらず」「それを男が喜んでいることに気づかない」などなど、男性側から一方的に都合のいいキャラクターとして描かれることが非常に多い。実にうんざりする。
到底頭が良さそうに見えず、男にこびるような行動を取る人物を「清純な優等生」としてイノセントに描く作品を観ると、現実の女性を観察したことがないのだろうか、自分の脳内のイメージをそのまま垂れ流していて不安にならないのだろうか、と不安になる。意志も知性もあるキャラクターをヒロインに据えて欲しいと心から思う。
最初はこの映画も、その手の一派かと思ったのだ。プールであまりにテンプレ的な美少女的行動をとるヒロイン。男が喜びそうな接触の仕方。眉を顰めてしまう。それに対し、あまりに素直で無邪気でおろかな少年たち。思春期に入るか入らないかの頃の純な恋愛がこれです、と言われたら苛立ちを抑えきれないだろう。オッサンの妄想、と切って捨てたくなる。
だが、受け取り方としては、「あまりにテンプレ的」と感じたので正しかったのだ。このヒロインは「そういう」子なのだ。男が喜ぶことをわかっていてこんな行動をしているし、その行動はまんまと成功している。「純な恋愛の物語」でもなんでもない。ヒロインは主人公に愛など抱いていない。利己的で打算的な動機から、主人公を弄んでいる。そう言い切ってしまっていいだろう(ラストシーンはもしかすると異なるかも知れないが)。
しかし、それは「身勝手」ではない。身勝手なのは彼女ではないのだ。彼ら、彼女らは小学生で、大人の身勝手さにはあらがうことが出来ない。その身勝手へのせめてもの抵抗がヒロインの行動であり、主人公たちはただ、一方的にそれに巻き込まれただけだ。花火すらも作品中ではどうだっていいモチーフに過ぎない(もちろん、観る角度によって物事は・・・・の隠喩ではあるだろう。しかしそう考えると、「どんな角度から観たところで」というのがこの作品の描き出している残酷な少年少女時代の現実なのだ)。
このヒロインを非難することはできないだろう。彼女の行動がどれだけ利己的であったとしても、一瞬映って壮絶な芝居をみせた彼女の母親以上に愚かではないし、非難されるべきではない。
小学校高学年の頃、女の子の行動、発想、感情が謎だらけだった記憶。意味のない衝動だけで友達と遊んでいた思い出。それらを忠実に脚本で再現してみせたこと自体が驚きに値する。きっと現実にこんなことがあったとしても記憶の隅に仕舞い込まれて終わってしまうであろう一日を正確に切り取ってみせた、佳作。
でも、これ長編アニメにリメイクして何したんだろうね。そのうち観るかも知れない。