週に最低1本映画を観るブログ

毎週最低1本映画を鑑賞してその感想を5点満点で書くブログ。★5つ=一生忘れないレベルの傑作 ★4つ=自信を持って他人に勧められる良作 ★3つ=楽しい時間を過ごせてよかった、という娯楽 ★2つ=他人に勧める気にはならない ★1つ=何が何だかわからない という感じ。観賞に影響を及ぼすような「ネタバレ(オチなど)」は極力避け、必要な場合は「以下ネタバレあり」の記載を入れます。

『天気の子』★★★★★


映画『天気の子』スペシャル予報

過去の作品たちを踏まえた、新海版○○○としての快作。

あらすじ

離島から家出し、東京にやって来た高校生の帆高。生活はすぐに困窮し、孤独な日々の果てにようやく手に入れたのは、怪しげなオカルト雑誌のライターの仕事だった。そんな彼の今後を示唆するかのように、連日雨が振り続ける。ある日、帆高は都会の片隅で陽菜という少女に出会う。ある事情から小学生の弟と2人きりで暮らす彼女には、「祈る」ことで空を晴れにできる不思議な能力があり……。(映画.comより)

 

 前作『君の名は。』については、個人的には引っかかることがいくつかあり、一番好きな(というか記憶に残っている)のは『秒速五センチメートル』だった。新海作品は全て観ているが、どちらかといえばビターな印象の作品のほうが好み。

 さて、今回はネタバレありで分けて書く必要がありそう。ネタバレナシでの感想としては、かなり好きな内容だった。まずキャラクターは前作同様非常にキャッチー。デザインもかわいく、声はどれもよくハマっている。小栗旬平泉成がよかったし、前評判でああだこうだ言われていた本田翼もいい芝居だった。かといってリアルに偏らず、アニメや漫画らしい茶目っ気もきちんと込められている。コミカルでかわいい、前作以上にメジャーな作品だと感じた。

 

 映像美は前作よりも更に増えたであろう予算をふんだんに突っ込み、東京の街をCGで徹底再現してぐりぐり動かす凝りよう。もちろん本作の重要要素である天気の表現はカラフルでよく動き、美しい。特によいのは、「凄いことをやっている」という感じが過剰に伝わらない、つまり、きちんと抑制しコントロールしながら、美術周りが作り上げられているということだと思う。

 と、見事な作品・・・・なのだが、「とある点」が気になっていた。ここが人によって気になるかどうか別れてくるポイントだと思うのだが、これによって感想も大幅に変わってくるだろう。他の人の感想を観てみたい・・・・と感じる作品に仕上がっている。

 

 この先、ストーリーに関してはネタバレなしには、というか観賞後でなければ語れない要素があまりに多い。ライト層だけでなく、読み深め好きなアニメオタクや映画ファンにもオススメの作品なのは間違いなし。また、「もう一度観てみたい」という気持ちにもなる。前作からしっかり一歩踏み出した作品だった。 

 

 

 

 

*************以降、ネタバレあり*************

 

 

 

 

 さて、正直に言えば自分は、かなり終盤までこの作品に感情移入出来なかった。理由はシンプルで、「主人公に共感出来なかったから」。

 まず主人公の悩みや行動に共感させるのは物語の重要な要素で、これを怠るとストーリー全体が他人事にしか感じられなくなってしまう。お客にあたかも自分の問題であるかのように感じさせるのが大切なのだが、本作は観ていても主人公の行動の感情的な無計画さがどこまでも続く。まあそれは、子供だから、で説明つくとはいえ、根底にあるはずの「島を出てきた理由」の欠如が終始引っかかり続けていた。

 

 普通、どんな物語でもどこかのタイミングで主人公の抱えている悩みは提示されるし、物語を通してそれは解消される。「信頼出来ない語り手」の手法で意図的にそれを伏せる描き方もあるが、それだときちんとその不信感を描く必要がある。「こいつは信じてはいけない」とどこかでみせなければならない。

 しかし本作の主人公は、肝心の家出の理由を最後まで出さない。しかもラストシーンでは「別に戻ってみればどうということもない日常だった」で済ませている。これは異常なことで、明らかに意識的に行っていることである。ここから伝わるのは、「一般的な高校生の家出程度の他愛もない理由だった」ということ。

 

 フェリーに乗っている主人公が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでいるのも、「この人物は家出にあこがれを持っている少年である」ということを示している。しかも野崎訳でなく村上春樹訳ということは、同じ少年の家出物語である『海辺のカフカ』への目配せでもあるだろう。

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

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ライ麦畑でつかまえて (白水Uブックス)

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海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

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  どちらも精神が不安定な少年による家出物語であり、『カフカ』は現実か虚構か判断のしようのない事件が巻き起こる、というのも意味深である(ちなみにこれらの物語でも、主人公の家出のきっかけは描かれている)。

 

 大したことない漠然とした不安に近い理由、「光を追いかけていった」という説明がある程度で、どうもしっくりこないままラストまで向かうので、彼がどんな事件に巻き込まれても、ふぅん、としか観ていられず、いったいどういう狙いなのか、まさか単に思春期特有の悩みから家出するだけの少年なら感情移入出来る、というつもりなのかと疑問を感じ、これは前作のほうがよかった、と途中まで思っていた。

 のだが、あの終盤を迎えて、この全てが自分の中ではひっくり返った。

 

 空に主人公とヒロインが昇ったとき、「これは連れ帰ったら雨が続いて東京は水没するのでは?」と思った。そして、まさかそんなことはしないだろう、したら素晴らしい、なんて高をくくっていたのだが、一切逃げずにまさにその通りになったので驚いた。本作は彼らの罪を描くために構成されていたのだ。

 意地悪な言い方をすると(本作はとても意地悪な作品だと思うのだが)、主人公たちがやったことは、自分たちの愛のために世界を滅ぼした、ということになる。非常に身勝手で、おそらく不愉快に感じる人も少なからず居るはずだ。16歳と15歳の子供の、とても幼い愛情が東京を水没させたのだ。彼らはその責任は負わざるを得ない。

 

 この水没した東京の光景が思い出させたのは、『エヴァンゲリオン』の画である。たった二人の若い男女の気持ちの問題で世界が呆気なく滅びへ向かう、非常に似通っていると思うが、主人公の性格が全く逆になっている。シンジは徹底して悩み抜き絶望するが、本作のヒロインはラストシーン、3年後の光景でも描かれているように、苦悩の陰は少なくとも表面上は薄い。

 これを性格の差と捉えるか、それとも本作の主人公だって3年間にシンジなみにいろいろ苦しんだけれど今は落ち着いていると考えるかは悩ましいが、普通後者なら、そのことが伝わるように演出するものだろう。少なくとも筆者は、主人公は感情的に行動しがち、かつ、自分を悲劇の物語の主人公だと思いがちな人物であるように感じてしまった。理由は家出のきっかけの薄さ、劇中での須賀や刑事など、大人の説得に対する反射的なリアクションである。

 ただ、もちろんこれらの行動上の特徴は、ごく普通の高校生なら備えているもので、そこまで主人公を非難する気にはなれない。また、少なくともヒロインは3年後も、たった1人で水没した世界にいのり続けていた。自分はもう巫女ではなく、この世界をこうしたのは自分だとわかっていながら。

 

 その上でこの物語全体を改めて捉えると、とても残酷といえる。ラスト周辺で大人たちは、世界を水没させた彼らをフォローしたり(主人公に前科持ちにされたのに)、そもそも水没した世界を肯定したりしているが、しかしあんな状態になって死者が出ていないなどと脳天気なことは言っていられない。社会もめちゃくちゃになって、取り返しのつかない状態になっているに決まっている。だが主人公たちは、自分たちの愛のために、エゴイスティックに行動したという責任は負い続けなければならない。

 ここがポイントで、おそらくは死者も出したであろう前代未聞の大災害を引き起こした(前作の主人公たちと真逆である)ふたりを、それでも肯定的に見られるか、許しがたい愚か者と感じるか、これによってこの作品の評価は正反対になるだろう。

 

 筆者は個人的に、この行動は否定的に感じられてしまう。許しがたい罪を犯していると思う。しかし、自分が同じ状況に置かれたら、迷わずヒロインを助けるほうを選ぶだろうし、だから物語が世界崩壊の方向へ誠実に進んだとき、快哉を上げたくなった。スタートからこっち、実のところずっと周囲の人も優しく、起きる出来事も主人公たちに味方し続けていた展開が、ここで最大のしっぺ返しをくらわせたのだ。

 前作で全てが夢だったのかも知れないというオチを付けたのと同様に、本作にも全ては、主人公たちのオカルト的な妄想である可能性も残されている。ムーが登場したのはその導線のためだろう。これは全て単なる未曾有の気象異常で、主人公たちが祈って晴れたのは全て偶然、空へ上ったのはただの夢、最後の大災害もただの災害で、主人公たちには何の責任も無い可能性だって、ある(須賀の発言の通り)。

 

 だとしても、主人公たちのこれからの苦しみは変わらない。自分たちが選択したことに違いはなく、自らの選択によって責任を負わなければならない(大いなる力を持ったと思った人間は、大いなる責任を負わなければならない)ことに変わりはないのだ。それをラストの10分弱で突きつけて、それでも歩んでいくしかないふたりを見せて終わったのはかなりハードで、とても痺れる。

 あの2人に怒りを覚えるか、それとも頑張って歩んで行けと応援の気持ちを覚えるかはまさに人に寄るだろう。筆者は、両方かも知れない。怒りと不快さを覚えるけれど、修羅の道を歩んでいくなら凄みがあって、面白い。前作は幸福を予感させる再会で終わったが、本作は、この先どうやって生きていくのかすらわからない世界に置いていくエンディングとも言える。それがまた、以前の作品のようにビターでよい。

 

 このあたり、『ヱヴァQ』で描かれた展開との類似と違いを考えるとこれも面白い気がするが、長くなりそうなのでやめておく。なんにせよ、この映画は新海版エヴァなのは間違いないだろうと思う。来年6月の『シン・エヴァンゲリオン』で庵野さんがどんなラストを描くのか、よりいっそう楽しみになった。

 何より、本作が「意地悪」なのは、話の流れだけ追っていると「少年少女の超泣ける純愛ストーリー」として読めるところ。エンディングにしろ、とても残酷で絶望的な状況に置き去りにしているのに、明るく美しく希望に満ちているように、見える。実際は、ラストシーンのあとからが大変なのに。

 観客に向けて「こういうのが好きなんだろ?」と監督が突きつけてくる感触は旧劇場版エヴァを思い出す、というと意地悪すぎだろうか。一見すると「力を合わせれば難題も乗り越えられる」映画に見える『シン・ゴジラ』も思い出した。この辺の意地悪さは、果たしてわざとなのだろうか?

 

 ともあれ、『君の名は。』の大ヒットも踏まえ、過去のビターな作風も忍ばせつつ、何重にも積み上げて仕掛けを仕組んだ、一筋縄ではいかないとても面白い作品。こんな意地の悪い読み取りは、筆者が酷い性格だからなのかも知れないけれど。