週に最低1本映画を観るブログ

毎週最低1本映画を鑑賞してその感想を5点満点で書くブログ。★5つ=一生忘れないレベルの傑作 ★4つ=自信を持って他人に勧められる良作 ★3つ=楽しい時間を過ごせてよかった、という娯楽 ★2つ=他人に勧める気にはならない ★1つ=何が何だかわからない という感じ。観賞に影響を及ぼすような「ネタバレ(オチなど)」は極力避け、必要な場合は「以下ネタバレあり」の記載を入れます。

『ジョーカー』★★★★☆


映画「ジョーカー (原題)」US版予告

現実に追われ現実を描くことに「なってしまった」悲しきピエロの映画

 『ダークナイト』も、『バットマンティム・バートン版)』も鑑賞しているので、ジョーカーというキャラクターはやはり好き。単独映画が撮られると聞いたときは「えー、何するの今更」という気持ちになり、評判が圧倒的に良いと聞くと鑑賞を数週にわたり楽しみにし、という感じの自分。

 

 早速公開翌日に鑑賞。アメリカでの厳戒態勢を聞くに、よほどやばいものを観せられるのだろうと覚悟して行った。

 ネタバレは避けて書くと、非常に誠実でシンプルな作品だった。思い出した作品を列挙すると、『狼たちの午後』『タクシードライバー』『サイコ』『ディア・ハンター』『ソナチネ』『ベイビー・ドライバー』あたりだろうか。また、不謹慎に感じられるかもしれないが、京都アニメーション放火事件、香港でのデモ隊と警察の衝突のことも思い出さずにはいられなかった。公開直前に「覆面禁止法」が現実世界で成立するなど、企画段階で誰が考えただろうか。

 

 『ダークナイト』のジョーカーが最恐の悪を描くファンタジーだとすると、本作はひたすらに、残酷なまでに現実を描いている。明日にでも起こりうる恐怖を描いている、という意味では、これほど怖いものはないだろう。本作のジョーカーのような人は、おそらく誰もが観たことがあるし、もしかしたら自分自身かもしれない。

 ただ、どちらを本当に怖いと感じるかは、人によるかもしれない。筆者は、現実の一歩先、あるいは、現実の悪を抽象的に変換して物語に仕立てた『ダークナイト』の方が切実で、恐ろしく感じた。その気持ちは今も変わらず、本作の★は4つになってしまう。

 

 自分自身の足場を切り崩し、不安定にしてくるという意味だと、『ダークナイト』はいまだに怖い。「お前はどうなんだ?」と映画を観終わってからも問いかけ続けてくる怖さ(しかも答えは映画の中にない)がある。

 しかし、本作はあまりにも現実を描きすぎている。形而上的な要素などどこにもない。現実の特定の事件を拾ってきて映像化するよりも、よほど今の時代を良くも悪くも「そのまま」映画にしている、という意味で、希望は映画の中にも現実にもない。こんなことは今まさにいつでも、どこでも起きていて、それ以上でも以下でもない。

 

 監督は『ハングオーバー!』シリーズからコメディ映画を撮り続けている人だが、本作の技法はコメディのやり口をそのまま応用していると思う。愚かで、滑稽で、何もわかっていない人の姿を、ツッコミも入れずに淡々と映し続けている。古谷実北野武がコメディもサスペンスも同じテンションで描いて同じように面白い(笑えて怖い)のと、まるきり同じことだろう。

 そう、本作のジョーカーは文字通りの「ピエロ」なのだ。『バットマン』のジョーカーはわかりやすい狂気に陥った悪、『ダークナイト』のジョーカーは正体不明の恐怖を体現した存在だとすると、本作はどこまでも踊り踊らされる者。天才ではなく、それどころかなんの才能もなく、今までで最も人間臭く、悲しく、愚か。そして辛い。

 

 恐ろしいのは、いつか自分がこちら側へ行ってしまうのではないか、あるいは、同じ電車に乗っている目の前の誰かが行ってしまうのではないか、という感覚。一歩踏み出せば、今の時代を生きている誰にでも待ち構えている穴が、本作では描かれているのだ。

 セーフティネットの存在しない激しい格差のある世界で、消費社会が作り上げてきた曖昧な「夢(=才能や愛への希望)」だけを観させられてきた人間が、自分の人生を滑稽劇だと思って(気づいて)しまったが最後、人は「無敵」になってしまう。なぜなら自分に残された数少ない社会に対してできることは、犯罪ぐらいなのだから。

 

 そして、「笑い」はそんな狂気の入口になりうるのだ。本作のジョーカーは、そんな最大公約数的な「人間」として、恐ろしいほど冷徹に、緻密に描かれている。鑑賞し終わった後には、自分にはどうすることも、立ち向かうことすらできないという絶望感と虚脱感しかない。

 それでも、ぜひ鑑賞を。フィクションが現実をここまでの強度で描写するということは、そう滅多にあることではないのだから。