週に最低1本映画を観るブログ

毎週最低1本映画を鑑賞してその感想を5点満点で書くブログ。★5つ=一生忘れないレベルの傑作 ★4つ=自信を持って他人に勧められる良作 ★3つ=楽しい時間を過ごせてよかった、という娯楽 ★2つ=他人に勧める気にはならない ★1つ=何が何だかわからない という感じ。観賞に影響を及ぼすような「ネタバレ(オチなど)」は極力避け、必要な場合は「以下ネタバレあり」の記載を入れます。

『夜明け告げるルーのうた』★★★★☆

 

  伊勢湾台風以来の嵐が来るというので、という理由でもないが、なんとなくイメージが繋がって『ルー』を観賞。公開当時、いろんな人が褒めながらもなかなか興行収入的には苦戦していた印象。

 観てみると想像通りの印象派、まさしくアニメーションといった感じの青春映画。鮮やかなイメージがあふれ出す「動く絵」の愉しさが全面から伝わってくる。

 

 筋立てとしては、内気で沈みがちな少年が仲間に誘われ音楽を始めると、音楽好きな人魚の少女がやってきて、彼女と親しくなり・・・・といった感じ。まず最初に感じたのは、想像以上の『ポニョ』との類似性だった。

 

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  『ポニョ』は児童文学的な作品だが、本作はジュブナイル。海や波、水、魚や泳ぎを躍動感を込めて描くとこうなるのだろう。宮崎駿もかなり実験的な手法として制作した作品だった。本作の湯浅監督はそれをある種、更に押し進めて陰影無し、主線も状況に応じて省略、デッサンやパースの正確さよりもアニメーションとしての面白さを優先することで、制約のないアニメだからこそ作れる映画に仕立てている。

 海や陽射し、生き物の姿、喜びや感動をそのまま絵にしたような、生命力の噴出する鮮やかな画面は、脳裏に焼き付くほどだ。

 

 作中でワーグナーの『ワルキューレの騎行』を引用していたのは、第一には『地獄の黙示録』からだろうが、同時に『ポニョ』にも目配せしているのだろう(ポニョの本当の名前はブリュンヒルデワルキューレ。『ポニョ』は『ニーベルングの指輪』を下敷きにした部分があり、劇伴でもワーグナーのパロディがある)。

 また、ヒロインのルーがとにかくかわいい。表情豊かで感情をよく表し、歌も踊りも得意で無邪気に主人公を好いてくれる。彼女自身の思いはほとんど描かれないが、そこは本作の主眼ではないだろう。ルーのお父さんも、「ワン魚」も、出てきて動いているだけで愛したくなるくらいかわいいキャラクターたちである。一体次は何をやってくれるのか、彼女の動きばかりを見ていたくなる。

 

 だが、唯一気になったのはシナリオ。はっきり言ってしまえば、ストーリーそのものは非常にありきたりな内容で、「人魚を観光資源にしようとする大人と子どもの対立」とか、「そんな中で無邪気なままの人魚に悲劇が」とか、「たった1人でそれに抵抗しようとする内気な主人公」とか、「身勝手で横暴で子どもの話を一切聞かない大人たち」とか、どこかで観たような要素ばかりが飛び出してくる。

 言い換えれば「言葉で語られる」部分になると急激に魅力が失せるのだ。脚本は2人で執筆しているのでどちらに要因があるかはわからないが、映像で見せるパートは圧倒的な面白さに満ちており、さらに物語のテンポ(映像作品では非常に重要)もバッチリなだけに、セリフや説明、思索哲学の側面が深められていないのは非常に惜しい(逆に言えば、それらも完璧な宮崎駿がいかに化け物かということでもあるのだが)。おそらく湯浅監督は、完全に「絵の人」「感性の人」なのだろう。

 

 映像の余りの素晴らしさが、そうした弱みを何もかも跳ね飛ばして★4つ。監督はまだ50代とのことなので、これからもっと深まりのある作品を作るか、あるいは重厚な原作を元に自由な映像を作り上げていって欲しい(『Devilman cry baby』は未見)。

『グエムル―漢江の怪物』★★★☆☆

 

  ポン・ジュノ監督の代表作。以前『オクジャ』は観たことがある(★4つ)。公開当時はパトレイバーの廃棄物シリーズの盗作では、という騒ぎが出ていた。それも含めてどんな作品なのだろう、という気持ちで観賞。

 想像していたのと全く違うタイプの作品で楽しく観賞したものの、中間部でダレるところもあり★3つか4つか非常に迷った。正直3.5といったところ。まだ韓国映画を多数観ているわけではないので受け止め方に足りていない部分があるのかも知れないが、とりあえず現状の正直な評価。

 

 まず、パトレイバーの盗作とは全く感じなかった。当時騒いでいた人はこの映画を観ていなかったのだろう。パトレイバーの「廃棄物13号」シリーズは、研究所で極秘裏に開発されていた奇妙な生き物が東京湾に流出し、魚や人を食って大きくなりながら上陸し始め、捨てられていたレイバーの皮を被って現れたところを特車二課が迎え撃つ、という作中でもなかなか外伝めいた内容で非常に面白い。

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  一方でこの映画の怪物は正体不明だし、おそらくは環境汚染が原因で何らかの生物が巨大化した物、なのだろうが、その程度の設定はヘドラだってそうだし、そもそも初代ゴジラだってそれに近い生物なのだから、こんなのを盗作扱いしていたら怪獣映画など作れるわけがない。プロットにも類似点は全く無い。こんなことでいちゃもんを付けるのは映画のスタッフにもパトレイバーの作家陣にも失礼だろう。

 

 さて、その上で更に異なるのは、本作はブラックコメディだという点である。これは宣伝にも問題があるかも知れない。あたかもシリアス一辺倒の怪獣映画であるかのようにポスターや予告編では見せていたが、実際は随所に皮肉な笑いを詰め込み、主人公一家も全員コメディリリーフである。そのため、一般的な怪獣映画とは全く違う感覚の作品に仕上がっており、このノリに入り込むのに若干時間が掛かった(とはいえ『オクジャ』もそれに近い寓話めいた作風なので、これが監督の作風なのかも知れない)。

 怪物「グエムル」の動きやそこから逃げ惑う人々の姿は、ハリウッド映画よりずっと少ない予算(おそらく)の中で展開しているにしては充分楽しめるレベル。モチーフは魚なので、『シン・ゴジラ』ほどおぞましさは感じない。

 そして登場人物は全員、不器用な人物。主人公はろくに仕事もせず、娘の面倒も見ず、河原の売店の店番もまともにやらない穀潰しで、その他の人々も、その小さな売店の店主、大卒で元左翼活動家のフリーター、いまいち決断力の無いアーチェリー選手、とことごとく頼りない人物ばかり。唯一まともなのは中学生の娘1人だけで、彼女が怪物にさらわれたことから物語は動き出す。

 

 ただ、中盤以降やや物語がだれ始める。予算の都合で怪物の暴れるシーンの量も限界があったのかも知れないが、話の進まない会話劇が連続するのは、いくらコミカルさを演出するためとはいえ飽きが来る。主人公が「愚か者」として描かれなければならない必然性があるのでその愚かしさを見せるシーンが何度も登場するのだが、シーンの狙いが今ひとつはっきりしないので観ていて迷いが生じるのだ。

 この物語が最終的に描き出すのは、現場も、怪物もろくに見ようとせず、民衆の話に耳を傾けず信用もせずに思い込みから一方的な解決策を提示し、しかもその策が無意味なものだった、という政府やエリート層の愚かしさだった。愚かしい主人公の姿は、たけし映画の登場人物のようにどうしようもなく、悪気もなく、いやむしろ善人なのだけれど抜け出すことの出来ない社会の陥穽に見えてくる。

 

 誰からも相手にされない主人公の姿を笑いながら、次第に悲しい気持ちに包まれてくる、という狙いは理解出来たが、その段階的な移行は今ひとつ上手くいっていない。説教臭くしたくなかったのかも知れないが、せっかく、「怪物」という異物を日常に導入することで、普段は顕在化してこない問題点をあぶり出せそうだったのに、それが急にラストシーン近辺で集中的に描かれる構図になってしまった。シリアスに移行するタイミングがズレてしまっていたのか。

 切り替えるタイミングがあるとすれば父親の死ぬシーンあたりだったと思うのだが、その後にも超人的な主人公の描写とか、妙にコミカルの残滓が漂っている。はっきり途中から悲劇に切り替えてしまったほうがわかりやすかったのかも知れない。

 

 エピローグのもの悲しさは見事。もしかすると、韓国の政治的な問題を描いているのかも知れないが、あいにく詳しくないため正確には読み取れなかった。登場人物の1人が元政治活動家なのもそのあたりを狙っているのだろうか。

『アナイアレイション 全滅領域』★★★★☆


Annihilation (2018) - Official Trailer - Paramount Pictures

 ネットフリックスオリジナルのSF映画。監督は『エクス・マキナ』のアレックス・ガーランド。主演はナタリー・ポートマン。

 SFホラー、と銘打たれていたのでおっかなびっくり観たのだが、そこまで怖がらせてくる作品ではない。少なくともハリウッド系の、驚かせてなんぼのホラーではない。しかし、これまで感じたことのない種類の緊張感を終始強いてくる、不安に満ちあふれた良作。

 

 筋立ては単純で、宇宙から堕ちてきた「何か」が作り出した領域に行ってきた夫が、帰ってきたら瀕死の状態に。その理由、何が起きたかを知るために、医学者の妻が仲間4人と共に領域の中へ入っていく、というだけのもの。ロードムービー、というか、探検のお話。

 だが、その「領域」の異様さは常に観客の心を揺さぶり続ける。『メッセージ(★4つ)』を観たときも感じた不安感、異質さ、理解を超えた疑問の連続。『もののけ姫』もおそらくは意識しているだろう。我々の理解出来ない存在と接触したとき、人はどうなってしまうか。我々と全く異なる論理で動いている者と出会うと、人はどうなってしまうのか。

 

 キーワードは「反射」と「目的」。コピー、でも、模倣、でもいいのかも知れないが、細胞が分裂するように、自然の存在が写し取ることそれ自体に目的も意味もない。この物語の「領域」にはいったい何があるのか、何の意味があるのか、終始それを追っていく内容だが、最終的には「何もない」というところに行き着く。最後の灯台にいるのは『MOTHER 2』のスターマンを思わせるエイリアンのような者だが、彼らはただ、模倣と増殖を繰り返しているだけだった。侵略でも何でもない。

 一方、領域の中に入っていった5人の女性のうち、この突入に意味や目的を見いだしていた人物は主人公1人だけ。他の人物たちは、「目的」を失った順に命を落とすか、消滅していった。

 

 生物の進化や生命の誕生、それ自体には何の意味も無い。「なぜ? なんのために? 何が起きた?」と問いかけは日々、無数に行われているが、始原まで辿れば結局意味などない。意味や目的は人間が勝手に、人間の視点から付与しているに過ぎない。物語の冒頭でがん細胞について言及されること、主人公がその研究をしていること、主要登場人物ががん患者であることもそれに対する目配せだろう。がんが自己増殖して患者を死に至らしめることに何の「意味」があるというのか。

 そんな哲学を随所で感じさせる本作には宗教的な雰囲気すらある。領域の内部は毒々しく恐怖を感じさせると同時に、鮮やかで美しい。食虫植物の美しさにも似ている。あるいは仏教の涅槃のイメージだろうか。

 

涅槃 - Wikipedia

 

 思いつきで「涅槃」などと書いたが、ウィキによると部派仏教におけるすべてが滅無に帰した状態を「無余涅槃」と呼び、その状態は「身は焼かれて灰になり、智の滅した状態」を指すらしい。物語終盤のある人物が座禅を組んでいたこと、その人物の行ったこと、また、ラストのシーンで起きた出来事を考えると、偶然の一致とは考えにくい。

 

 閑話休題。一方で、強い目的と意志を持っていた主人公は、最後に次なる展開への予感を覚えさせる。「愛」と「贖罪」のために領域へ行き、戻ってきた彼女は、最後に明かされる理由からそのどちらの目的も失った。そんな彼女の選択が次にもたらす事態は何なのか。全く予測は出来ない。なぜなら、もう目的など無いから。そしてだからこそ、とても怖い終幕を迎える。

 わかりやすさは全く無い作品で、メジャーでの劇場公開が不可能だったのも頷ける作品。けれど、映像美とその行き所のない不安感を味わうだけでも、観る価値がある。

『プーと大人になった僕』★★★☆☆


映画「プーと大人になった僕」日本版予告

 

 今回この作品を観てみて、思っていた以上に自分が『くまのプーさん』が好きだったということに気づいた。原作を何度も繰り返し読んでいたので、頭にずっと残っていたらしい。冒頭のクリストファー・ロビンとプーの別れのシーンは、原作で読んだやりとりを思い出して懐かしい気持ちに。

 全体を通して観ると、まあ、いくつかの点で好みじゃなかったり、疑問を感じたりするポイントが多くあって、決してよく出来た映画とは感じなかった。だが、穏やかなプーの姿を見られたのは気分もよかったので、★3つといったところに。

 

 まず、マーク・フォースター監督といえばダニエル・クレイグによるボンド史上ぶっちぎりでつまらない2作目『慰めの報酬』の監督であり、さらに終盤ぐっだぐだのビッグバジェットゾンビ映画『ワールド・ウォーZ』の監督としても著名である(主に筆者の中で。後者はそのぐだぐだも含めて嫌いじゃないけど)。以来さっぱり噂を聞かなかったので(実際は1本撮っているようだが)さては干されたかと思っていたが、思いも寄らない大作映画で見かけることとなった。

 改めて観賞して感じたことだが、この監督、あまりテンポ感に優れていないのだろう。もうちょっとで気持ちよくなりそうなシーンをだらだらと見せたり、なくてもいいやりとりを残していたり、無駄が多い。どの作品も雰囲気や世界観を作り出すことには成功しているので、そういう気持ちよさへの配慮は足りていない人なのだろう。

 

 物語としては予告を観てイメージするとおり、というかそれ以上でも以下でもない。大人になったクリストファー・ロビンがプーと再会し、今の自分を省みて、再び人として明るい生き方を取り戻す、という至ってシンプルなもの。この非常に楽天的な物語と対比させるなら、『劇画・オバQ』がぴったりかもしれない。

 『Qと大人になった僕』といった感じ。ただしこちらは陽気な結論には至らない。

 そう、本映画の問題としては、結論が冒頭で速攻で出てしまう、というところにあるだろう。プーは最初から最後まで言っていることは変わらない。そしてそれに反することをクリストファー・ロビンが大人になって言っているのだから、最終的にはそれがプーの言葉で打ち崩される。そんなことは冒頭の10分を観れば、いや、予告を1本観れば容易に想像がつくことで、しかもそれ以上の内容は本作に用意されていないのだ。

 誰がどう考えたってクリストファー・ロビンが語るブラック企業の論理が肯定されるわけないし、かといってプーの語る言葉以上に説得力のある結論、原作の『くまのプーさん』から先の物語が語られるわけではないのだ。たとえばロビンに娘が出来たのだから、父としてプーと語り、そして娘をプーに紹介する・・・・というような進展は用意出来るはずなのだが、特にそんな内容はない。子ども時代の肯定に終始してしまうのは映画一本で見せる内容としては物足りない。

 

 そしてそれ以前に・・・・申し訳ないのだが、物語の前提がどうにも、好きになれないのだ。原作の『プー横町に建った家』で描かれるプーとクリストファー・ロビンの別れを、ごく普通の別れとして捉えてしまうことにどうにも・・・・違和感がある。

 プーはクリストファー・ロビンのぬいぐるみであって、100エーカーの森もどこか不思議な場所にあるナルニア国のようなものではない、はずだ。プーとクリストファー・ロビンの物語は「子ども時代」そのものであって、ドラえもんのように別の個性と共に異世界探訪をしていた時間ではない。言い換えると、プーは別れた後別にどこかで個人的に生活しているのではなく、クリストファー・ロビンが森を去ったら独立して存在はしていない、と思うのだ(というか、そうであってほしい)。かといってプーは消えたわけでもなく、再会出来ないわけでもない。

 

 説明が難しいのだが・・・・たぶん、特に引っかかったのは、クリストファー・ロビンがおそらくプーのことを忘れている期間のプーの描写が入ったところにあったと思う。「一方その頃」みたいな感じで描かれていたのだが、これはいかがなものだろう。クリストファー・ロビンが思い出したらプーが現れた、だったら全然違和感なく受け入れられたのだが。それなら、「プーとの再会」=「子ども時代との再会」としてすごくすんなり受け止められる。

 なんだか、中途半端に「古い友人に再会した」だけのような描き方が入り交じっていたせいで、クリストファーにとっての「プーとの再会」がどういうものなのかがボケてしまっているのがとてももったいない。100エーカーの森から誰もいなくなってしまって・・・・というくだりも、あたかもクリストファーが子ども時代を完全に失いかけているから、という描写のように見えるのだが、結局そうではなかったりして、揺れ動いている。

 

 たぶん制作段階でもどっちのスタンスで行くか迷ったのだろうが・・・・完全に「旧友との再会」路線で行くのならもっと陽気な作風があっていただろう。「プーを子ども時代の象徴として捉える」路線なら、そちらに行ききったほうがよかった。どっちとも取れるような描き方は半端で、せっかくの題材なのに収まりが悪い。

 個人的には、冒頭のぬいぐるみらしい描き方で普通に『くまのプーさん』の実写版を作ってくれたら、喜んで観に行くと思う。

『エクス・マキナ』★★★★☆

 

  SF映画が好きなので、特殊効果を高く評価されてアカデミー賞を取ったときから観たいと思っていた。果たしてどんな作品かとワクワクしながら観賞。想定を大きく越えることはなかったが、充分に佳作と感じた。

 

 AIの話として描かれてはいるが、女性の解放へと至る物語と捉えたほうがいいのだろう。AIの過去モデルとして登場する役者はことごとくアジア系かアフリカ系。ヒロインだけが白人だが、これはようやく解放されようとし始めているのがまだ白人女性である、ということを暗に示しているのだろうか。

 物語は非常に静かに進む。登場人物は実質4人のみ。舞台も外部から遮断された家と、地下室以外にはない。自己中心的で傲慢なIT富豪(かつ天才エンジニア・プログラマー)、その会社の社員でいささか凡庸だが自分の知能には自信があり善良なプログラマーの男、そして美しいAI、さらに「英語がわからない」というお手伝いらしい女性。この女性が明らかにひどい扱いを受けていて非常に不愉快になるが、それももちろん計算通りの印象。

 

 起きるドラマ自体は驚きは少ない。どんでん返しはあるものの、SF映画を見慣れている人間なら想定の範囲内だろう。売りである特殊効果も、正直言って地味。確かにすごいのだが、実は凄すぎてすごさが素人に伝わってきづらい(笑)。何しろ頭から終わりまで違和感が全くないので、メインヒロインの特殊効果も「そういう身体の女性なのかな」と思えてしまうほど。マーベル映画を観ているときのような「すっげーやっべー」的な感覚は特にないのだ。

 かといって、先にも書いたようにSFとしてAIの可能性を想像以上に切り込んでいるような作品でもない。AIが発達したらこんなことが起きちゃうの・・・・!?というような物語を期待すると肩すかしを食らう。

 

 楽しむべきポイントはむしろ、「知性を持つ者」が誰で、「権力を持つ者」は誰で、彼ら・彼女らが何を考えているのか、という表だっては描かれない裏の事実を読み解くことだろう。閉鎖された空間で蠢く思惑。男性と女性の間で交わされるやりとり。

 監視カメラを観ることが出来たのは誰だろう? 視線は誰から誰に送られている? キョウコから言葉を奪い取ったのは誰だろう? そもそも、本作中で「人間」はすべて男性で、「AI」はすべて女性なのはなぜ? エヴァに「外」を教えたのは誰だっただろう。なぜ、彼女らは外へ出たくなってしまったのだろう。なぜ、何体AIを作っても同じ結果に陥っていたのだろう? なぜ、エヴァだけが皮膚を与えられていなかったのだろう? 暗喩として読み解けそうな要素は山ほどある。

 エヴァが皮膚を得るシーンは奇妙な夢のように美しい。終始流麗な映像、エヴァのデザインの見事さも相まって、見飽きない映画に仕上がっている。良作。

『MUTE』★★★★☆


Mute | Official Trailer [HD] | Netflix

 『月に囚われた男』や『ミッション:8ミニッツ』といったSF映画の傑作を2作連続で世に出した、ダンカン・ジョーンズ監督のオリジナル作品第3弾。非常に期待していた作品なのに劇場公開じゃないんだ、と思っていたが、観てみると少し納得。細かい寓意は読み取りきれなかったが、非常に私的で内容的にはとても小さなお話だった。メジャースタジオでは企画が通りにくいだろう。だが決して嫌いにはなれない。

 

 1作目の『月に~』も2作目『ミッション~』も、今思うと決して壮大なストーリーではない。どちらも共通して、1人の孤独な、取り返しのつかない喪失に苛まれる男の物語である(なので3作目として『ウォークラフト』の実写化などといういかにもハリウッド仕事らしい作品を請け負ったのに驚いてしまった)。1~2作目はどちらも、至ってシンプルなSFのアイディアをどこまでもどこまでも転がしていった挙げ句、目を疑うような地平へと辿り着いてしまう作品である。

 そこには、生きているとはどういうことか、自分とは誰なのか、ということへの根源的な問いがあった。同時に、目を引く明確なSF的アイディア(ポスターに惹句として書けそうなこと)も含んでいた。それらと比べると、本作はそうした惹きには欠けている。

 

 パッと観てわかるとおりの「80年代~90年代初頭的SF」のヴィジュアルを用いている。退廃的な世界。進歩を止めてしまった世の中。そんな中で、たった1人の水色の髪の恋人だけを愛する孤独なバーテンの男。彼は子ども時代、親の信念が原因で声を失ってしまっていた。そして突然、彼女は姿を消す。

 実のところ、主人公の身の上や抱えている問題と、この80年代的SF表現の間にはほぼ何の繋がりもない。こういう世界観にしなければ成り立たない表現はラストにほんの少しだけ出てくるが、大半の場面は別にSFじゃなくても成り立つ部分ばかりだ。SFは当然ながら、通常「SFでなければ描けないこと」を描くために用いられる世界観。さらに、この世界が近未来の圧制下に置かれたベルリンでなければならない理由も、作中では明示されない。

 

 だが、一見するとエンタメ作品のように見える本作は、実のところ限りなく私小説に近い作品なのだろう。なぜなら「何かを描こうとして失敗した作品」にも見えないからだ。失敗した映画作品もしばしば見かけるが、それらは「本来やりたかったこと」がどこかにあり、それが上手くいかなかったことも見て取れることがほとんどである。

 しかしながらこの作品は、明らかに確信してこういう作品を作ろうとした結果、できあがった作品に思われる。わかりやすさを放棄している作品というか。驚きや意外性、衝撃、あるいは過度な感情の揺さぶりによって観客を振り回そう、という気持ちがおそらくはなから無い。ただ1人の男が傷つき、終わる物語である。

 この手の作品につきものの派手なアクションシーンもこれといってない。そればかりか、アクションシーンが来るのかと思ったらすでに終わっているカットに飛ぶところすらある。正直、観ていても今何が起きているのかわからなくなるところも多々あった。登場人物は非常に少ないが、誰が誰でどういう関係の人たちなのか、ほぼ明示されないので「えーっと、何だっけ?」と混乱する。そもそも主人公が言葉を発することが出来ないのも、情報が整理できない状況を加速させる。正直言えば釈然としないシーンもいくつもあった。

 

 のだが、総合的に言うと嫌いにはなれない作品。ヴィジュアルイメージの美しさ(下品に堕しきらない映像美)と、登場人物の抑制された演技、幅の広い解釈を可能にする脚本。村上春樹がSFを書いたらこんな内容になるんじゃないかな、と今、ふと思った。すべての要素に何らかの意味を感じるのだが、一貫した解釈は困難で、しかし常に何かを訴えかけられているような感覚だけをずっと覚える。女性の描き方にも共通した印象がある。あるいはカズオ・イシグロ作品のような感覚。さらに言い換えると、『ブレード・ランナー』を観たときの感触にやや近いかも知れない。まあ、あちらのほうがSFである必然性があるのだが。

 おそらく、監督の心象風景を描くためにはこの「懐かしい未来」の描写が不可欠だったのだろう。それが他人に届くかどうかは別にして。万人に勧める気にはとてもならないが、個人的にはまた観たくなる日が来るかも知れない作品。

『探偵はBARにいる』★★★☆☆

 

  初めての真面目に芝居をしている大泉洋を鑑賞。『水曜どうでしょう』はClassicで流れているエピソードは全部観ているくらいのファンではある。だが演技をしているところは一度も観たことがなかった。
 ★は3つだが、決して悪くない3つ。深みとか重厚さとは無縁の映画だが、非常によく出来た邦画のサスペンス佳作。これは大泉洋でないと撮れなかっただろう。

 

 ストーリーそのものは「夜はバーに必ずいる探偵にやってきた謎めいた依頼を解決する」という至ってベーシックなもので、探偵の描き方も工藤優作を彷彿とさせるベタなもの。音楽も大野克夫的なジャズで、オールディーズのかっこよさはあるが先鋭性はない。
 というよりどこをとっても先鋭性も斬新さもない。とにかく泥臭い要素しかない作品で、最初のうちは観るのをやめようか・・・・と思う部分もあったのだが、次第に引き込まれていく。重要なのはまず、メイン二人のキャラの良さ。

 

 大泉洋はとにかくクサいのだが、これはもうワザと。クサい台詞とクサい振る舞いでクサい設定のハードボイルド探偵をやっているのだが、これを大泉洋が真面目にやることで結果的にバランスが取れているのだ。彼の場合、どれだけ誠実にやってもどこかとぼけてしまうので、これぐらい恥ずかしいくらいのキャラクターをやった方が釣り合いが取れるのだろう。逆に面白おかしいキャラをやってしまうと、面白おかしくなりすぎてしまうかも知れない。三枚目に二枚目をやらせるというのは正しい判断。
 基本的にはどこから観ても「ザ・大泉洋」なのだが、普段が芝居がかっている分、演技をしていても逆に作り物感がない。むしろ、たまにカッコいいことをすると「意外とカッコいいじゃん」とプラスに働くのは得だと思う。

 

 そして相方役の松田龍平も、意外と台詞も少なく目立たないのだが、激しいアクションで大活躍。想像していなかったが、この映画アクションシーンで結構魅せてくれるのだ。かなり危険を伴いそうなバトルもスタントなしでやっていたりして目を見張る。
 さらに、脇を固める役者が誰も彼も上手い。中盤に出てくる「クズのおっさん」役の役者が目に焼き付くような演技を見せてくれるのもよい。悪役もやたらアクが強いが下手ではないので恐怖感も凄みもある。ヤクザ役の松重豊というのも(どうしても『孤独のグルメ』を思い出しがちなので)ストイックな怖さが魅力的。アイドル的な俳優が一人も出てこないので、安心して観ていられるのが嬉しい。

 

 また、大泉洋が特にそうなのだが、滑舌がよいのだ。当たり前のことなのかも知れないが、邦画ではこれが本当にストレスになる。「え? 今なんて言った?」と聞き返したくなるような演者が平気で主演を張ることが多い中(字幕入れろよ、と思うことが多々ある)、この作品は全員はっきりとした台詞回しで、しかも芝居が上手い。ストレスフリーなのはそれだけで点になる。

 シナリオも、驚きこそ少ないかも知れないがよく練り込まれていて飽きが来ない。登場人物全員にきちんとドラマが存在している。過度な外連味が無くても、芸術性を出そうという欲が無くても、社会に対する問題提起が無くても、単なる二時間ドラマに堕さないだけの内容がある。

 

 ここまで褒め称えていて★3つなのは珍しいが、やはりウェル・メイドな作品で、生涯記憶に残る大傑作という感じのものではない。なのでこの評価、だが、観て損をすることはまずないだろう。疲れているとき気軽に観る映画としてオススメ。