週に最低1本映画を観るブログ

毎週最低1本映画を鑑賞してその感想を5点満点で書くブログ。★5つ=一生忘れないレベルの傑作 ★4つ=自信を持って他人に勧められる良作 ★3つ=楽しい時間を過ごせてよかった、という娯楽 ★2つ=他人に勧める気にはならない ★1つ=何が何だかわからない という感じ。観賞に影響を及ぼすような「ネタバレ(オチなど)」は極力避け、必要な場合は「以下ネタバレあり」の記載を入れます。

『ゴジラ FINAL WARS』★★★☆☆

 

他人に薦める気にはならない、中二病B級特撮。これが最後にならなくてよかった・・・・。

あらすじ

時は近未来20XX年、世界各地で核実験や戦争が行われた結果、多くの怪獣が目を覚ましてしまう。その脅威に対すべく、国連は地球防衛軍を結成し、日夜怪獣たちの脅威と戦っていた。そんな中、宇宙から訪れたX星人は怪獣を一掃し人類との友好を求める。しかし、本当の目的は地球侵略で、怪獣を送り込み地球総攻撃を開始する。時を同じくしてゴジラが覚醒、地球を舞台とした15大怪獣によるファイナル・ウォーズの幕が切って落とされる!

  6月はゴジラを観すぎた疲れからか、他の映画も鑑賞量が減ってしまいいささか反省。とはいえ、アマプラにゴジラが上がっている限りは出来るだけ頑張ってゴジラを観たい所存。

 さて、以前から気になっていた『ファイナルウォーズ』をようやく観賞。予告編を観た時点でしんどさを感じていたが、本編を見ると更にしんどい。とはいえ、ののしりたくなる気にはなれないから不思議なもの。

 

 内容に関しては、シナリオは★1つ(もしくはそれ以下)、演技も★1つ、演出も★1つ、映像の作りは少しましで★3つ、怪獣が一杯出てきたのでそれを勘案して★3つといった印象。正直褒めるべきところは怪獣が一杯出てきたところ以外にはない(断言)。

 ストーリーについては、はっきり言うが中学生が考えたレベル。もちろん怪獣大決戦系列の作品なので、シリアスさなどは求めてはいけないことなど百も承知なのだが、ダメなのはその荒唐無稽さではない。荒唐無稽でも成立させられることは『マッドマックス』や『キングスマン』を観ればわかること。奇妙な世界でもその世界の中でのルールや哲学が一貫していれば、没入して観られる。

 

 本作の問題は、登場人物の心理や行動に常識も無ければ良識も無く、発想の飛躍が多発してついていけないところにある。どんなに異常な世界であっても、人間の思考がきちんと順序立てて組み上げられていれば共感出来るのだが、本作にはまったくそれがない。どこかの下手くそなマンガやアニメで観たような発言が実写で連発され、品がない。人間の描き方を知らない人が作ったのだろう。

 女性の描き方も幼稚この上ない。執拗にミニスカートを穿かせ、理由もなく脚を映したがる。近未来だと主張しているが、まだ昭和のいつかだと言われたほうが理解出来る。ライバル関係にあるらしい主人公たち、過去にいろいろあったらしい偉いおじさんたちも、テンプレを重ねているだけだからなんの説得力も無い。

 

 今時、こんな登場人物ばかり描いていたら新人漫画家の読み切りだって通らない。こんな映画が2004年に作られたというのが何かの間違いとしか思えない。それなりのキャストが何人も出演しているのだが、こんな脚本でどうして出てくれたのか理解に苦しむ。最後のゴジラだから、と言われて受けてくれたのだろう。

 宇宙人役の北村一輝レベルになると、もうこれは笑わせようとしてやっているのだろうとわかったが、それ以外の人物はそのあたりの加減が非常に中途半端で首を傾げる。『マッドマックス』にしたいならもっと正気を失わないとダメだろう。哲学や思想を越えた、生存への強烈な欲求、という地獄を本気で描いているから、あの作品は面白いのだ。

 

 本作では半端な世界観に引きずられて、どの人の芝居もコント以下になっているのだから恐ろしい。15体も怪獣を出して世界を崩壊にまで導いたのだから、もっと必死で絶望させれば面白くもなったろうに。妙な恋愛の雰囲気とか自己愛の吐露とか描いている場合ではない。

 ちなみにアクションばかり描きたがって通常の会話のシーンは棒立ちばかりで演出皆無、そしてアクションは微妙に長い割りに特に何かを描いているわけではないので意味が薄い。アクションは派手だったらいいのではないのだ。以上、人間パートは壊滅的で褒めるところはない。

 

 のだが、怪獣が一杯出てきて派手に闘っているので評点がぐっと上がって★3つになった(人間の芝居に対する評価と全然違う)。ただこれも、シンゴジラのようなシリアスな闘いは全く無く、いわゆる怪獣プロレス、昭和のゴジラの進化形なので要注意。

 B級映画を笑って観られる人は観てもいいだろう。暇で、ゴジラが好きなら。そうでないなら観ないほうがよろしい。

『ザ・ファブル』★★★★☆


岡田准一主演『ザ・ファブル』特報

邦画とは思えない壮絶なアクションに満足。あともうちょっと痒いところに手が届けば・・・・

あらすじ

超人的な戦闘能力を持つ伝説の殺し屋ファブルは、育ての親であるボスから、1年間殺し屋を休業して普通の人間として生活するよう命じられる。もし誰かを殺したらボスによって処分されてしまうという厳しい条件の中、「佐藤アキラ」という偽名と、相棒ヨウコと兄妹という設定を与えられ、大阪で暮らしはじめたファブルは、生まれて初めての日常生活に悪戦苦闘。そんな中、偶然知り合った女性ミサキがある事件に巻き込まれたことから、ファブルは再び裏社会に乗り込んでいく。(映画.comより)

 

 原作漫画はヤンマガ誌上で連載開始当初から読んでいる。独特の間合いとタッチで、「殺してはいけない殺し屋」というキャッチーな題材をハードボイルドに描く傑作で、大人でないと読み切れないような奥行きのある作品。正直言って、アイディアそのものは映像化にぴったりなものの、あの雰囲気を再現するのは絶望的に難しい。

 しかし前評判は高かったので楽しみにしながら映画を鑑賞。結果、二時間充分楽しみながら観られた。キャストもスタッフもかなりベストを尽くしていると思う。しかしどうにも気になる部分もあって・・・・期待を挙げすぎたのだろうか。

 

 まず、決定当初は不安だった岡田准一のファブル役は非常によかった。原作のなんとも言えない表情、目付き、描線から生まれている雰囲気を見事に現実へ置き換えている。綺麗になりすぎてはダメ、コミカルかつ冷徹でないとダメ、アクションも完璧でないとダメ、という恐ろしく難しい課題をクリアしていた。ヨーコ役の木村佳乃もボス役の佐藤浩市も上手い。

 冒頭からハードなアクションをかまして観客を釘付けにする構成も、ベタながら楽しい。殺しの天才という設定を納得させるには、ファブルも完璧でなければならないが、「圧倒的」であることにちゃんと説得力がないといけない。ヤクザの集団が何が起きているのかわからないくらいの混乱に陥る中で、ただ1人だけ冷静なファブルが確実に仕留めていく様は気分よく、世界で通用するアクション、という売り文句は伊達ではなかった。

 余談だが、「敵を殺せない」というルールを作ると、最終的にゾンビ映画のようになる(敵が減らない)のは少し笑った(笑)。

 

 原作の魅力そのものは上手く映画に移植出来ている。特に一番難しいと思っていた「クールかつコミカルかつハード」という部分が、むしろよく仕上がっている。ただ、一方で気になるところも少なくない。

 まず、なぜリアル関西出身者をキャストに迎えなかったのだろう・・・・。岡田准一佐藤二朗以外、ほぼ全員関西以外の出身である。関西弁ネイティブからすると違和感がかなりあった(関西出身ではない知人すら、違和感が強いと漏らしていた)。このキャラが標準語を話しているのは何か理由があるのか・・・・と首を傾げること数回。

 関西弁を話せるいい役者はたくさん居ると思うので、これくらいはなんとかしてもらいたい。原作を読めばわかるが、大阪弁でなければあの間合い、テンポはなり立たないと思うのだ。

 

 役者周りで言えば、「組織の人間」役の人々(なぜか「ヤクザ」という単語は一言も出てこなかった。レイティングの都合か?)が綺麗な顔過ぎるのがどうにも気になる。岡田准一はこの中だとそんなキラキラしていないくらいで、小島だの砂川だのといった生粋のヤクザものであるはずのキャラがぴっかぴかの顔をしているのはかなりの違和感。事情はわからないでもないが、ここに美形をキャスティングする必要はあったのだろうか? 海老谷役のヤスケンすら、顔が整いすぎて居るぐらいだ。

 知名度のある役者が顔立ちの整った人間しかいないのはわかるが、ここはある程度ちゃんと「ヤクザ」「チンピラ」に見える人のほうが安心して憎悪出来るし、説得力がある。時代劇などを観ていても思うが、つやつやの顔をした人はつやつやの人生を送ってきているのだ。特に三十代にもなっていると余計に。

 

 また、最大の疑問は映画オリジナルのキャラ、殺し屋二人組である。「ファブルに憧れる若手殺し屋」を導入すること自体は、ファブルの業界内での評価をわかりやすく表現するために必要だったとは思う。ただ、そのキャラ造形がいただけない。

 原作でもそうだが、『ザ・ファブル』の最大の魅力は、登場人物全員が類型的ではないオリジナルの人物造形、マンガで今まで観たこともないようなキャラクターで、にもかかわらず「どこかにいそう」というラインを絶妙に護っているところだろう。現実には「セクシーな女」とか「偉そうな中年男」みたいな役割のために存在している人間などいない。徹底した人間観察眼と考え抜かれたキャラクター設定がそれを可能にしている。

 

 のだが、オリジナル要素のこの殺し屋二人だけが、いかにも「サイコな殺し屋」というテンプレそのもので、これが実に悔やまれる。しかも、『ノーカントリー』や『サイコ』、『セブン』のような鬼気迫る殺人鬼ではなく、一言で言えば「ヒャッハー系」である。ヤンマガに突然ジャンプの悪役が混じり込んだような違和感。

 これは頑張れば何とか出来るところのはずだ。斬新な画期的悪役を出せとまでは言わないが、人生を感じさせるぐらいの人物は配置出来るのではないか。

 

 また、シナリオの構成自体にも気になる部分がある。この物語全体は、一言で言えば何の話なのだろう。やや散漫になっているのだ。ファブル視点のファブルについての物語にしづらいこと自体はわかるが、だったら『レオン』のように、護られる側についての物語として導線を作って欲しい(群像劇といえるほど多様に人間模様が絡み合って何かを描き出しているわけでもないのだ。群像劇なら、様々な人間が動いた結果として浮かび上がってくる主題が欲しい)。

 一見しても「誰がどうなる物語」なのか判然としないままでは、観賞後の満足感も薄まると思うのだが、どうだろう。

 

 思うところいろいろあって文句ばかり書いてしまったが、楽しく観られるという意味では上々の1作だろう。岡田准一の芝居も大いに楽しめたので、ぜひ続編も作ってもらいたいものだ。

『海獣の子供』★★★★★


【6.7公開】 『海獣の子供』 予告2(『Children of the Sea』 Official trailer 2 )

言葉で伝えられない「世界の真実」と観客を同期させてみせる、妥協のない驚きの傑作

あらすじ

自分の気持ちを言葉にするのが苦手な中学生の琉花は、長い夏休みの間、家にも学校にも居場所がなく、父親の働いている水族館へと足を運ぶ。そこで彼女は、ジュゴンに育てられたという不思議な少年・海と、その兄である空と出会う。やがて3人が出会ったことをきっかけに、地球上でさまざまな現象が起こりはじめる。(映画.comより)

 

 今年はどうも、海や自然を題材にしたアニメ映画企画が重なってしまう年らしい。予告編を見たときから気になっていた本作を鑑賞。ちなみに原作は恥ずかしながら未読。

 目を疑うほど作り込まれた映像で、世界そのものを観客の頭に流し込んでくる圧巻の作品。原作を知らなくても充分に「受け止める(≠理解する)」ことができる。監督は、『帰ってきたドラえもん』『おばあちゃんの思い出』の渡辺歩。

 上にも書いたように、描写の洪水を受け止めることは出来るが、理解することはおそらく出来ない。しかしながら、流れに身を任せさえすれば混乱することなく物語を泳ぎ切ることが出来る。この感覚自体、おそらく主人公が物語り中で感じていることと同じだろう。

 観賞前に想像していたより、遙かに、帰ってこられるか不安になるくらい遠くまで連れてこられる作品。絶対映画館で観て欲しい。

 

 本作の主題のひとつは、「世界の全てを言葉で伝えきることは出来ない」ということ。劇中でも言及されているとおり。実際、言葉は出来事をそぎ落とし、取捨選択してしまうものである。言語化出来ない感覚を少しでも伝えようとするなら、言葉よりも絵画や音のほうが有効なのだ。

 原作は未読だが、マンガというメディアが非常に得意なのはこの一面だと思う。作者という一個人が感じ思ったことを、非常にプリミティブな形で他人に伝達することが出来る。おそらく、小説以上に。まだ想像だが、原作はとても感性的な描写が相次いでいるに違いない。

 

 そうした作品を映像化するのは恐ろしく困難である。アニメーションにする以上、大勢の人間が関わらざるを得ず、その全員が共通の認識を持つにはある程度、言葉に頼らざるを得ない。それだけでなく、大勢の観客に見せることを意識するからには「ちょっとぐらいわかりやすく・・・・」というスケベ心は湧いて出てくる。結果として中途半端な妥協の産物が生まれかねない。

 しかし、本作にそうした妥協は無縁である。言語化不能の、感性的で感覚的なイメージと比喩の乱立、飛躍を、驚くほどそのまま映像にしている。宇宙、海、星、隕石、夜、月、魚、鯨、精子、受精、受胎、深海、男、女、出産、赤子、こうした無数のイメージの狭間を画と映像の力でシームレスに飛び回り、言語化せずに比喩をそのまま流し込んでくる。

 

 芸術性の高いアニメーションではそうした描写はままあるかも知れないが、これはほとんど詩として描かれているもの。物語のある作品としてこれを行うのは恐ろしく難しいはずだ。そしてそれに、成功している、と筆者は感じた。

 大切なのは無理に理解しようとしないこと。何度も繰り返し見れば一貫した解釈は可能なのかも知れないが、そうした硬直した理解を放棄した先に、美しく恐ろしい、手の届かない場所にある世界の真実がやってくる。

 最初は、この至って平凡にしか見えない主人公の少女にどんな意味があるのか(正確には、たくさん問題があるように描かれてはいるが明示はされない)、なぜ描かれる価値があるのかわからなかったが、物語の最後に至ってよく理解出来た。彼女は最後まで、まっとうな人間でなければならなかったのだろう。

 

 この「明示はされない」というのは、作品全てにおいて一貫された姿勢である。作中に登場するありとあらゆる要素が、「描写はされるが明示はされない」。説明もされない。わからせよう、という気もない。わからなくていいのだ。だって主人公もわからないのだから。

 最初から最後まで、徹底して主人公の視点で描く、というのはまさにこういうことをいうのだ。ひとりの女の子に全てがわかるわけはないが、しかし、そのひと夏の出来事が全てを変えてしまうということはありうる。

 

 映像の美しさも壮絶なレベルだが、個人的には海の描写が素晴らしかった。海というものをただ何も考えず美しく描くのではなく、きちんと「怖いもの」として描く。人知の及ばない、人の手の届かない奥深い闇をたたえた水として描いているのが本当に見事。宮崎駿作品でもここまでの奥行きを感じたことはなかった。

 さらに、久石譲の音楽がすごい。ジブリ作品で聞けるようなメロディアスな音楽作りを一切使わず(つまり自身の最大の武器を使わず)、映像に添い遂げる楽曲を作り上げ、よい意味で映像に溶け込んで記憶に残らない作品に仕上げているのがさすがだった。

 

 現時点で今年一番の作品。もう一度観に行こうかな。

『ディザスター・アーティスト』★★★★☆


The Disaster Artist Teaser Trailer #1 | Movieclips Trailer

「いつか何かが出来るはず」という夢の果てに出来た"駄作"の価値とは

あらすじ

“史上最大の駄作”としてカルト的人気を集めた2003年製作の映画「ザ・ルーム」(日本未公開)の製作過程を、「127時間」などの俳優ジェームズ・フランコの監督・主演で映画化。1998年、サンフランシスコ。俳優を目指す19歳のグレッグ・セステロは、演劇クラスでトミー・ウィソーという風変わりな男と出会い、その型破りな言動に興味を抱く。同じ夢を目指す仲間として意気投合した2人は、俳優としての道を切り開くべく一緒にロサンゼルスへ引っ越すことに。しかし現実は厳しく、2人とも成功とは程遠いまま月日だけが過ぎていく。しびれを切らした2人は、自分たちで映画を制作することを思いつき、実行に移すが……。(映画.comより)

 この映画、実話であってどういうことが現実に起きたかを知ったあとで観たほうが、おそらく面白いだろう。ウィキペディアで『ザ・ルーム(2003年の映画)』の項目をざっくりとでも読んだほうがいい(2015年の映画『ルーム』ではない)。

 上記のあらすじの通り、謎の男が多くの人を集めてわけのわからない映画を撮り、あまりのわけのわからなさにファンがついた、という実際に起きた出来事を題材にした映画である。日本で言えば『シベリア超特急』と大体同じだ。

 

シベリア超特急 コンプリート DVD-BOX

シベリア超特急 コンプリート DVD-BOX

 

  コンプリートボックスが出ていたとは知らなかった。

 芸人にたとえればコウメ太夫あたりかもしれないが、異常なまでにダメなものは一周回って味になってくる。もちろんわざとやっているのではダメで、ガチンコで面白いと思って作っていないと興ざめである。

 

 本作はアメリカでのそうした映画制作を題材にしている。本当にあった出来事だけあって、前半の痛々しさはかなりのもの。個人的にそういう描写を観ると共感性羞恥にやられるのでなかなかしんどかった。映画俳優になりたい二人がどうしても上手くいかず、嫉妬に駆られ、自分たちで何も知らないのにプロのスタッフを金で集めて映画を撮り始める。苦難を乗り越え、最終的に作品はできあがる。

 ただ、こういった物作り系作品にしばしば観られる流れ(『僕らのミライへ逆回転』や『カメラを止めるな!』)のように、「次第に情熱が周囲の理解を呼んでなんだかんだで良作ができあがる」というような感動的なことは、全く無い。現実にもそんなことは起こらなかったのだから当たり前である。

 

 それではどうやってまとめているのか。言ってしまうと、上記のような類作よりも遙かにビターである。現実同様、駄作はあくまでも駄作であり、奇跡が重なって名作になることなどない。創ったものは創ったとおりにあとに残る。

 けれど、本来思っていたのと全く違う形であっても、愛されるかも知れないし、価値を生み出すかも知れない。悲惨で歪なそれを受け止められるのか、自分の思い描いていた理想と違う形になっても、自分なりに認めることが出来るのか。1人の人間の人生のようかも知れない。

 

 また、ものを創ったことがある人は皆わかると思うが、どれだけ周囲から滑稽に見えても、本人は本心から傑作だと思っているものである。本作の主人公、トミーもふざけているのでもバカなのでもなく、本気でいいものが出来る、出来ている、自分の脚本は素晴らしいと思っているのだ。

 そして、もしかしたら自分もトミーかも知れない、とは誰でも疑いを抱く。自分が作っている、あるいは作ろうとしているものは、実はとんでもない駄作かも知れない。周囲から観れば失笑ものの意味不明な品かも知れない。それは自分自身からはわからないことなのだ。それでも作り続けることに価値はあるのか。いや、それでも作り続けるしかないのだろう。

 

 「頑張っていればいつか必ず」なんてことはない世界である。それは劇中でも言及されている。夢見ていたような成功は永遠にやってこないかもしれない。その可能性のほうが高い。けれど、生み出したものはきっと何かを与えてくれる、のだろう。それだけでも、続ける価値はあるのかも知れない。

『ゴジラVSキングギドラ』★★★★☆

ゴジラVSキングギドラ

ゴジラVSキングギドラ

 

 ハリウッドSF要素ごった煮サービス満点ゴジラ、荒いがこれもまたよし

あらすじ

日本に未来人の乗るUFOが飛来し、ゴジラによって日本が死滅されることを予告する。それを阻止するには、かつてゴジラがまだ放射能におかされていなかった恐竜として密かに生存していた1944年の太平洋戦争下にタイムワープし、ゴジラを消滅させるしかない。しかし、そこには未来人の陰謀が隠されていた…。(amazonより)

 

 自分が一番なじみがあるのが平成ゴジラシリーズ。特に、VSキングギドラ以降はリアルタイムに映画館で見ていたので思い入れも強い。なので、たぶん客観視は出来ていないだろう。オススメ度合いもそのバイアス込みで観て欲しい。

 何十年ぶりかに観たが、やはりこの頃からのゴジラはスタイルがよくてカッコいいし、キングギドラも美しい。ミニチュアの出来もよい。シナリオも、やりたいことをとにかく全部盛りにしていて(収拾ついているかは別にするとしても)、熱さ若さを感じて面白かった。

 

 『未知との遭遇』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』『ターミネーター』、あまたの戦争映画、さらになぜか『鉄男』と、オマージュが大量に詰め込まれている。一個一個の完成度も意外と低くないのだが、わりと元ネタがはっきりわかる形で引用されているので、知らない人(子どもの頃)は楽しかったのだが知ったあとだと微笑ましくは感じられる。

 また、タイムパラドックスもそうだが、細かい部分を詰めていくと登場人物の行動の狙いなどにも詰めの甘さが残る。様々な合体させた要素に収拾を付けるための狂言回しとして月刊ムーに寄稿しているオカルトライターが主人公として登場するのだが、彼も強く感情移入するほど状況に巻き込まれていない(切実に事態を解決しなければならないほど問題に関わっていない)ので、常に他人事感が漂っている。

 ゴジラ自体も、わざわざタイムトラベル&ワープなどを駆使して存在を消滅させようとするという熱い展開があるにもかかわらず、結局やろうとやるまいとゴジラは出現してしまう、という一体そこまでの努力は何だったんだオチが待っているので若干脱力感が残った。

 

 だが、元日本軍の兵士である登場人物には、長い時間を描いた作品だからこそのドラマ、ゴジラだからこその奇妙な縁の物語が用意されていて非常に味わい深い。生と死をゴジラという非日常的存在に支配され、あの日、死んだはずだった人間が再び巡り会う運命は、SFならではの描写だった。ここをもっとフィーチャーすればかなり厚みのあるストーリーに出来たと思うのだが、さすがに題材として渋すぎるか。

 また、旧日本兵とSFを組み合わせた物語というのは映画だとあまり見当たらないのではないかと思うのだが、そういう意味でもオリジナリティがあってよい。

 

 さらに、終盤の新宿での対戦はがっつり豪華な巨大生物同士の争いを描いていて見応え抜群。細かいことは気にせず、ゴジラカッコいいなあ、怪獣映画楽しいなあ、で満足したい人には、シリーズ中でもかなりオススメの1作と言える。

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』★★★★☆


GODZILLA 2: King of the Monsters "Super Godzilla" Spot & Trailer (2019)

言いたいことは山ほど在るが、格好良かったから結果まあヨシ

あらすじ

前作から5年後の世界を舞台に、モスララドンキングギドラなど続々と復活する神話時代の怪獣たちとゴジラが、世界の覇権をかけて戦いを繰り広げる。また、それによって引き起こされる世界の破滅を阻止しようと、未確認生物特務機関「モナーク」に属する人々が奮闘する姿を描く。(映画.comより)

 

 久々にネタバレあり、なしでわけて書こうと思う。

 期待しながらIMAX3Dで観賞。前作は観たあと知人の特撮オタクと話し合った結果、「いろいろ引っかかるがまあ頑張った内容」と上から目線の評価をまとめた記憶が在る。その後、『シン・ゴジラ』で「これが本当に観たかったヤツや!」と大満足したので、2014年版のハリウッドゴジラは中の中くらいの満足度になっている。

 

 ネタバレなしで語るなら、「怪獣のカッコイイバトルが観たいヤツ集まれ!」という感じ。巨大生物、もっといえば巨神たちの闘いの美しさ、そしてそれに何も手出しが出来ない愚かな人間たちの姿、という神話的(それもギリシャ神話や日本神話的)な光景の魅力は存分に描ききっている。

 海外のレビューで「人間ドラマが手薄」というような話があったが、そこまででもなく人間たちの様子は描けていたと思う。でも、そこというよりは「人類がまだ知らないおそるべき者たちがこの世にはいて、彼らが目覚めたとき我々はどうすることもできない」ということを見せる、クトゥルフ的恐怖を描くことには見事に成功している。

 

 個人的にもゴジラシリーズにはこだわりがあるので言いたいことは正直山ほど在るのだが、特にキングギドラが格好良かったのでこんな感じの評点に。前作よりも日本の過去作への目配せが多かったのも印象よかったです。

 

 ネタバレナシだとここまで。以下、ネタバレありです。

 

 

 

 

 

 

 

************************

 

 

 

 

 

 さて。

 本当に言いたいことが山ほど在るのだ! 正直言わせてもらえば、人間ドラマは手薄なのではなく、描き方が間違っている。これでは面白くなるはずがない。にもかかわらず、どうでもいい家族愛親子愛夫婦愛の偽善的なドラマにだらだら尺を割いているので「手薄」な印象になってしまうのだ。

 口が悪くなってしまったが、実際怪獣たちの闘いと家族の不和の問題がほとんどかみ合っておらず、後ろで大怪獣たちが闘っているのに手前ではただの家族喧嘩、劇中の言葉を借りるなら「おらこんな両親いやだー(こんな言い方してないけども)」になってしまう。

 

 個人的な意見だが、「怪獣」に対置出来るのは基本、「社会」であって、個人が直接立ち向かって満足のいく描写は出来ない。ごく普通のエイリアンやジョーズ、あるいはジュラシックパーク的モンスターなら個人の物語から描くことも出来るかも知れないが、超巨大怪獣は人間を襲うのではなく街や国を襲うので、一個人の私的な問題だけに回収するには大事過ぎる。彼らは基本的に、人間とは何の関係もなく暴れているのだ。

 なので、何らかの形で社会を代表する人物が対置されて欲しい。科学者(第1作)、政治家(『シン・ゴジラ』)、軍人(平成ゴジラ)、巫女(平成ガメラ)など、一個人と言うよりも人類代表として、マスな視点で物事を語れるポジションの人物がいてほしい。私人としての問題はさておいて、人という種の話をしてほしいのだ(そうでなければ、エヴァのように異常に私的な問題に帰着させることで登場人物の異常性を見せることになる)。この点、『パシフィック・リム』でのデルトロ監督はさすがだった。

 

 だが、ハリウッド版のゴジラはハリウッド映画にありがちな個人の物語に持ち込んでしまっており、もう圧倒的に間違っている。プロデューサーあたりに「入れないとダメだ」とでも言われたかのように、父親、母親、子どもの問題を均等にまんべんなく入れているのだが、どれもこれもちゃんと展開しきらないうちにキングギドラにわやくちゃにされて終わるので達成感もない。

 これ、修正は簡単だ。もっとも異常な行動を取っている母親の物語に絞り込んで、父親や子どもはサブに据えて、かつて息子を失い誤った信念に導かれた人物の暴走と悔恨、そして贖罪の物語にすれば充分成り立つのだが、ボビー・ミリ―・ブラウンをどうしても主役に据えたかったのか、単にろくでもない両親の間で翻弄されるかわいそうな子供の描写が長時間展開されるので据わりが悪い。父親に至っては特に描かなくてもよかっただろう。

 こういう、まさしくシン・ゴジラが切り捨てた要素を入れざるを得なかったのが残念だった。初代ゴジラの芹沢博士のように、人間の絶望と苦悩を大怪獣と相似形で描けるレベルまでフォーカスすれば(今回の場合は、怪獣に子どもを奪われた母親の狂気)、もっと面白いものになり得たのに。

 

 あわせて、前作から変わらず存在している大きな問題として、モナークがある。あいつらは、いったい、何をやりたい組織なのだ! 観ていても全くわからない。怪獣に立ち向かいたいのか、保護したいのか、再封印を目指したいのか、怪獣を研究したいだけなのか。頼むから明示して欲しかった。

 モンスターバースがMCUのようになれていないのもここが大きいだろう。アベンジャーズやニック・フューリーが何をやりたいのかはよくわかる。しかし、彼らはそもそもどこにどう所属している何の財源のどういう組織なのか。世界中に謎の施設を大量に設置することは出来る一方で、米国政府の公聴会ではIMFのように叱られていたりする。

 あえて怪獣保護を目的としている、ならそれはそれでいいのだ。狂信的に怪獣を保護しようとするならいいし、殺そうとしているならそれでもいい。はっきりしないからこいつらを信じていいのか疑っていいのか、期待していいのか憎んでいいのか全然わからない。

 

 さらに、ニック・フューリー的ポジションの芹沢博士とその横に居るサリー・ホーキンス演じる博士。彼らは何をしに、あんな世界中あっちこっちに出向いているのだ。前作でもさっぱりわからなかった。その上今回は、大物二人の出演料削減のためか、二人とも居なくなってしまう。サリー・ホーキンスの無駄遣いもいいところである。

 あと、今回の展開についていえば芹沢博士の行動、核爆弾でゴジラを目覚めさせる、というのは、もう、ゴジラという怪獣の成り立ちを考えればあり得ないし、芹沢という名前を背負っているキャラクターには絶対にやって欲しくなかった。

 

(※追記:ツイッターなどで、「オキシジェン・デストロイヤーで死したゴジラ=キリストの復活のために、自らが最も否定したかったはずの核兵器と共に自らの命を賭した芹沢博士⇒1作目の芹沢博士との対比」という指摘&監督自身の言葉を見た。なるほど、と思うのだが、それを描くにはやはり圧倒的に芹沢博士の描写が足りていない。『エンドゲーム』のトニー・スタークくらい過去に積み重ねてきたならともかく、まともに描写がなされてこなかった芹沢の内面、ゴジラに対する思いをそこまで汲み取れ、というのは無理があるだろう)

 

ダークナイトライジング』を観たときも感じたが、未だにアメリカでは核兵器に対する認識が、ちょっと強い爆弾程度なのだろうか。

 あんな至近距離で核爆弾が爆発したら、潜水艦内の人々もただでは済まないだろう。核爆発寸前のゴジラの周辺をうろうろしていたら、登場人物たちは尋常ではなく被曝しているだろう。怪獣の出自からしても、そこはきちんとしておかなければなるまい。

 

 怪獣の暴れる場所も、今回は市街地はほとんど無く、大半が南極とどこかの海と山である。これは好みも分かれるが、面倒でも街で闘っていただきたかった。怪獣のアクションは、破壊される日常を伴ってなんぼである。作品の内容から言っても、きっちり文明を破壊せねばなるまい。終盤、大量に怪獣が出現しているにもかかわらず、ほとんどディスプレイ上の描写で済まされてしまっているのはさすがに予算と時間の限界があったのだろうか。

 

 また、単純にサスペンスの盛り上げ方が下手なのもよろしくない。怪獣復活作戦は主人公の母親の科学者自身が立案した、というなかなか衝撃的な展開なのに、それが流れの中でさらっと語られるのでカタルシスが全く無い。音楽なりセリフなり演出で盛り上げながら、味方だったはずの人物が実はそもそも敵だった、ということを描くべきなのに。

 ここに限らず、人間の感情描写、盛り上げの演出がどこもかしこも上手くいっていない。親子三人のドラマに全く入り込めないのも、ひとつにはこの下手さが影響しているだろう。一方で、怪獣の感情描写は非常に達者だった(笑)。これは本作が史上最もやり遂げていたポイントだろう。どの怪獣もしっかり感情が感じられ、ゴジラモスララドンキングギドラの首の一本一本にも性格が見て取れる。

 

 このあたりは昭和の子ども向けゴジラのような人間味で、好き嫌いは分かれるだろうが、ギドラの見せ方はなかなか魅力的だった。ただ、ラストのライオンキング的な描写は、むしろゴジラを矮小化させかねず(既存の動物の性質レベルに収めてしまっている)、いかがかな、と思ったが。

 おそらくなのだが、監督はあまり、人間に興味が無いのだろう(想像だけれども)。ないならないで別に構わないのだが、だったらうかつにおざなりで薄味な人間描写などせず、大怪獣映画に特化させてしまったほうがよい。人間は怪獣が踏みつぶすためのおもちゃに過ぎない、と割り切ったほうが、たぶんいいものが創れる。ただ、そのためにはゴジラを題材にしないほうがいいだろうし(ビッグバジェット映画は八方美人を求められる)、難しいところである。

 

 ・・・・とまあ、言いたいことが本当に山ほど在って、もっとあった気もするのだが、とりあえずこれぐらいにしておく。こういうことを観賞しながら大量に思ったのだが、でも、「キングギドラ格好良かったしなー」で★4つ、である。あ、ゴジラのテーマからの12音階の引用、さらにまさかのモスラの唄の引用まで入ってきたのも得点高い・・・・でもオキシジェン・デストロイヤーの雑な扱いはいかがなものかと・・・・。

 こんな感じで無限に感想が湧いてくる。我ながらどうかと思うが、ゴジラ映画にはやはり思い入れが強すぎた。

 ようやく、エピソード8を観たあとのスター・ウォーズオタクの気持ちが理解出来た気がする。「やりたいことはわかるがこれは違う」という複雑な気持ちとともに、また新しいゴジラが公開されたら劇場に足を運んでしまうのだ。

『キングコング対ゴジラ』★★★☆☆

キングコング対ゴジラ

キングコング対ゴジラ

 

よくもないが悪くもない、ザ・怪獣プロレスにして昭和のコメディ

あらすじ

日本のテレビ局の思惑で、南海の孤島ファロから連れてこられるキングコング。そして、北極の氷が解けて蘇ったゴジラ。やがて両者は日本の地で衝突し、壮大な闘いがくり広げられる。(amazonより)

 

 次のハリウッドでのゴジラ映画は『ゴジラvsコング』らしいのだが、こちらは五十年ほど前にすでに日本で実現していた二大怪獣対決もの。当時はキングコングのほうがネームバリューが高かったからか、コングの名前のほうが先に来る。

 1作目の監督、音楽担当が復帰し、初のカラー作品、クオリティは2作目よりも大幅によくなった3作目、なのだが、とりたてて「是非観るべき!」というべきポイントもない。

 

 ストーリーはキングコングの基本、「商業目的の一段がカメラを持って南方の島へ行ってそのまま連れ帰ってくる」の中に、ゴジラをねじ込んだような形。現代では絶対に出来ないような「南の島」の描写が出てくるが、伊福部昭による楽曲が強烈で印象深い。

 前作(第2作)で北海道沖の島の氷の中に沈んだはずのゴジラは不思議なことに北極の氷の下から発見されるが、これはもう大した理由もなく日本にやってくる。ただ、今回は都会よりも田舎の大自然を闊歩しているシーンのほうが多く、悪くはないがミニチュアセットの迫力には欠ける。

 

 そして対決。アンギラスほどダレはしないが、やはりキングコングが借り物の怪獣(アメリカの権利会社に金を払って使わせてもらっている)であることもあって、描写に遠慮があるのが「ゲスト」という感じで面白い。いかにも相手側に気を遣っているような、「いや、キングコングがこのまま負けっ放しのワケはありませんよ」みたいなセリフが頻繁に出てくるのだ。

 マンガでたまにある、他の作品とのコラボ作品のような雰囲気で、失礼なことを言わせるわけにいかないのはわかるが、しかしこういうのはその手の遠慮が透けて見えると、普通にやるより面白くならない。どうして本作は『キングコング対ゴジラ』なのか不思議に思っていたのだが、向こうさんを立てるためなのだろう。本作でも怪獣の特性上、殴り合いつかみ合いが相次ぐのでゴジラの重厚さは感じられず、プロレスっぽさは強い。

 

 というか、このあたりの対決を観てみると、平成あたりのゴジラシリーズのように、「ゴジラ主体で何をぶつけるか」という発想ではなく、どちらかというとほぼ対等な人気怪獣をぶつける(この次のモスラや、次の次のラドンのように)、アベンジャーズに近い発想のシリーズだったのだろう。

 監督は1作目と同じなのだが、上記のような事情もあってか、雰囲気は昔の日本のコメディ映画、といった感じで、愉快なところは現代の視線からも多数あるものの、深み厚みは特にない。1作目のような哲学は付けるつもりすらなく、完全なお祭り映画として制作されているのがわかる。

 

 ただ、登場人物の描写はなかなかしっかりしていて、どのキャラクターも印象に残るのは好印象。特に製薬会社の宣伝部長は強烈にキャラが立っていて、あくどい割りに憎めないのはジャクソン版キングコングジャック・ブラックに近いものを感じる。

 言っていることもやっていることもろくでもないのだが、出てくるともっと観たい、と感じるのは、馬鹿馬鹿しいキャラでもしっかり演じきっている役者の技量だろう。意外と人間サイドのシナリオも、些細なお遊びに見えた要素がちゃんと伏線になっていたりもするので、決して手抜きではない。

 昭和のゴジラはここからどんどん大衆向け⇒子ども向け路線をひた走るだろうが、果たしてどこまで観賞することが出来るか。さすがにこうも連続していると疲れてきた(笑)。