週に最低1本映画を観るブログ

毎週最低1本映画を鑑賞してその感想を5点満点で書くブログ。★5つ=一生忘れないレベルの傑作 ★4つ=自信を持って他人に勧められる良作 ★3つ=楽しい時間を過ごせてよかった、という娯楽 ★2つ=他人に勧める気にはならない ★1つ=何が何だかわからない という感じ。観賞に影響を及ぼすような「ネタバレ(オチなど)」は極力避け、必要な場合は「以下ネタバレあり」の記載を入れます。

『セッション』★★★☆☆

 

セッション [Blu-ray]

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  周囲にたたえる人が数人いたので以前から気になっていた作品。『ラ・ラ・ランド』は★3つだった。
 感想としては、うーん、この物語において作者は「音楽」をどのように描きたかったのだろうか、というところがピンとこなかった、という印象だった。


 早い段階で登場する下品な単語を並べ立てた罵倒、最初に退場を余儀なくされるのが「デブ」というあたりで、ああこれはジャズで『フルメタル・ジャケット』をやる話なのだろうな、と思った。少なくとも意識はしているだろうと思う。
 それはいいとして、では現在、『フルメタ』をジャズを題材にしてやる意味が那辺にあるのだろうか、という疑問が浮かぶ。教師役の演技は凄絶かつ悪辣で見応えがあり、それを受けてのドラムの演技は(ジャズドラムとしての善し悪しは別にして)熱かった。

 

「テンポ」の精確さを病的に重視する教師の姿勢はかなり疑問が残ったが、監督は元ジャズドラマーらしいので根拠はあるのだろう(やっていること自体はクラシック音楽を題材にした方が適しているように感じる)。

フルメタル・ジャケット』はヴェトナム戦争の虚無を終始一貫して描いている傑作だが、ハートマン軍曹の言動は目の前にいる若者を徹底して否定し、彼自身を肯定することで同時に戦争を肯定し、戦場の機械として仕上げるために機能している。そして成功している。
 だからこそ彼は射殺されなければならなかった。物語において、ハートマン、そしてヴェトナム戦争はニアリー・イコールであり、その場においてのみ強烈な意義を持ち、逃げ場のない絶望でありながらも、同時に瞬間的に霧散する、愚かしい虚無でもあったからだ。

 

 それでは、本作はどうだろう。教師が絶叫するジャズは、逃げ場のない絶望であり絶対的正義なのか。この場においてはそうだろうが、冒頭に別の教師がいたように、この学園内でも他の音楽は存在し得た。教師は主人公を選びにやってきて、彼は選ばれ、半ば自分自身の功名心のために教師のバンドに居続けた。なぜなら主人公の見ているきわめて狭い世界において、教師のバンドは世界最高のジャズバンドだからだ。

 だが、戦争と音楽は違う。他の居場所は存在しうる。あえていえば、「逃げ場のある虚無」なのだ。評価軸が一つしか無い世界ではない。もちろん、実質逃げられないように主人公を追い詰めるパートは存在しているが、それもやはり、様々な事情によって自分自身をドラムでしか肯定することが出来ない主人公が、音楽を戦場のようなものとして捉えてしまっている「誤謬」と思えてならない。
 本作においては『フルメタ』と明確に違い、主人公のサイドにもあからさまな愚かしさがいくつも存在している。理想を押しつけることしかしない(そもそも理想が存在しているのかすら怪しい)教師も愚かだが、そんな教師を盲信してしまう主人公もまた、愚かに見えてしまう(ガールフレンドを中二的な思い込みで振るあたりが特にわかりやすい)。

 

 では、いったん教師を否定し自らの愚かしさを悔い、ドラムをやめようとした主人公が、教師にいいように言い寄られてラストの舞台に上がらされ、一度ははめられそうになるもついに主導権を握り、最終的には不適に『キャラバン』を演奏し終えるラストのパートは、何なのだろうか。最終的に主人公は、教師を殺さず(殺そうとしたのは1つ前のパート)、ともに音楽をやり終えたのだ。

 あくまで個人的な感想だが、最終的に主人公は教師と共犯関係に陥ったのだ。一度否定したはずの教師の「戦争的音楽」、人を自殺に追いやる音楽、狂気の向こう側にある音楽に彼は最後の舞台でたどり着いてしまった。
 そんな音楽が良いか悪いかは、この場では検討しない。そんなジャズが良いか悪いかも自分は知らない。主人公に才能があったのかどうかすら、映画を観てもはっきりとはわからない。いい音楽、悪い音楽、完璧な音楽、美しい音楽、つまらない音楽、まして主人公の成長、そんなものをこの作品は描いていない。

 

 描いているのはただひたすら、過剰な理想を追い求めた先にたどり着く狂気の向こう側、無私の世界の、本来存在し得ないであろう「音楽」である。それがいいとか悪いとかはもはやどうでもいい。だからラストシーンで観客は消失する。最後に観客の拍手は入らない。関係ないからだ。
 そんな「音楽」にどんな意味や価値があるのか。そんなこともどうでもいい。ただたどり着きたかった場所にたどり着いてしまった、それだけなのだろう。だから、あの演奏が終わった後は描かれない。意味が無いからだ。

 

 映画の点が★3つなのは、あくまで筆者個人がいち音楽ファンとしてそのような「音楽」を好きになれない、そのようなものを理想だと思いたくない、肯定したくない、という個人的感情による。この作品は描こうと思ったものを描けている、成功作である。

『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』★★★★☆


『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』TVスポット_F(大ヒット上映中!)

 

 楽しみにしていたガチャピンチャレンジ、ならぬ「トム・クルーズチャレンジ」をようやく鑑賞。いやもう、イーサン・ハントがどうとかストーリーがどうとかじゃなく、トム・クルーズがどれぐらい頑張ってるかを観るシリーズだと思っているので、筆者の中ではガチャピンに一番印象が近い。

 さて、感想としてはシリーズで一番盛り上がった、という評価も納得の仕上がり。このシリーズは筆者の中ではかなりアベレージポイントの高いものなので(★2つが『II』、★3つが『I』、他は全部★4つ、という印象)、そこまで画期的、とまでは感じないが、さすがの安定感ある完成度だった。脚本無しで撮りながらストーリーを決めていった、と裏話を見かけたが、そうは感じさせない複雑な筋立てで翻弄してくれる。

 

 そう、★が1つ減じてしまったのはこの複雑性にある。ストーリー前半はスパイ映画特有の「ミッションの転がり」が連続して、今現在の主人公の目的が何なのかが今ひとつ捉えづらい。今、イーサン・ハントは何をやっているんだ?としばらく考えなければならない場面もいくつか存在するのだ。シーンごとに狙いが変化していき、さらに二重三重の裏切り、誰も信用出来ない不安も重なる。

 昔のように「あのトランクを取り戻すんだ」では作品が保たなくなってしまったのは、『ダークナイト』や『スカイフォール』以後のヒーロー&アクション映画の悲劇かも知れない。上手くいった作品はいいのだが、たとえば『慰めの報酬(★2つ)』や『アトミック・ブロンド(★2つ)』のような大混乱を来す可能性も常にある。

 

 ただ、本作はプルトニウムの奪還、という最小限の明確な目標は設定されていて、転がっていくのはこれを最終的に達成するために要求されるミニクエストのほうなので、細かいことは気にせず、目の前のアクションを楽しむ、という姿勢でもいいかもしれない。一応、サブプロット群にも一貫した筋は通っている(と思う)。

 その他問題点としては、「IMFの失態によって発生した世界の危機をIMFとイーサン・ハントが根性と偶然の力で救う」という根本的なプロットのマッチポンプ的構造があるが、これはシリーズ全作品そうなので突っ込んではいけない(力強く)。むしろ、そういうシーンが来たら「待ってました!」と手を叩くぐらいがちょうどいい。

 

 別件で問題があるとすれば、「予告しすぎ」問題があるだろう。ぶっちゃけた話、予告編で観られないアクションは1つも存在しない(その気になればほぼすべてのアクションやスタントを予告編で観ることが出来る)。なので、映画を観ていても、「あー次は予告のあのシーンが来るのか」と答え合わせのような感覚が続くばかりで、驚きはあんまり得られない(全く、とは言わない)。まあ、楽しみにしすぎて予告編を手当たり次第に見てしまった筆者が悪いのだが、もうちょっと隠し球を設けて欲しかった。前作『ローグ・ネイション』ではそれがあったのだ。

 また、期待していたスタントシーンにも、「ホントにやってる」からこその問題点が見えた。CGだといかようにも補正出来るところが、「マジでやっててマジで撮影している」がために、アップになりすぎたりブレが激しくなりすぎて、何やってるのかわからなくなってしまったシーンがいくつか見受けられたのだ。これはもういたしかたないことなのだろう。

 実際にやっている、が売りのアクションシーン、普通ならスタントマンやCGで充分だろう、と思えるシーン、特にヘリコプターアクションは、実写である価値が十二分にあったのだ。やはりコンピューター・シミュレーションには、特に自然の美しさを再現するときに限界が生じる。無数にある木の葉、風の動き、太陽光の微妙な陰り、その他無数の複雑な要素を完璧に再現するのは極めて困難で、それを「ただ本当にやる」という方法で突破してみせているのはさすがの一言だった。

 スカイダイビングシーンもそうだが、世界は美しい、というシンプルな姿を超絶アクションと共に見せてくれるトム・クルーズのエンターテイナーとしての姿勢は、今回特に輝いていた。

 

 また、今回特筆すべき点としては、ヘンリー・カヴィルの頑張りがあるだろう。トムが俳優の職分を越えて頑張りすぎるのはいつものことなのだが、カヴィルは別にスタントの壮絶さで売っている俳優ではないはずだ(スーパーマン以外の役を知らないのだが)。なのに、トムほどではないにしても、相当部分を自分自身で、それもかなり危険なスタントも含めて演じているのには恐れ入った。「え? これもマジでやったの?」と感じたシーンも(特に終盤)多い。格闘シーンの格好良さも、長い手足を駆使した正当派の格闘術というトムとは全く別種の迫力で、見応えも抜群だった。

 

 というわけで粗は相当に見受けられるが、この作品でそこを指弾するのはお門違いだろう。満足。

 

 ・・・・一個だけ、ハリウッド映画での核爆弾やプルトニウムの扱いの粗さは、どうにかならないものなのだろうか。『ダークナイト・ライジング』でがりがり引きずられている原子爆弾を観たときも苦笑を禁じ得なかったが、今回のドラゴンボール並みの手軽さでぽんぽん素手で扱われているプルトニウムボールにも頭を抱えた。お前ら全員被曝してるぞ!と言いたくなったが・・・・野暮なのだろうな。

 日本映画では『太陽を盗んだ男』ですらしっかりした防護服の描写と、重篤な被曝の描写を入れているあたり、やはり基礎的な知識の違いなのかも知れない。

『ジャズ大名』★★★★☆

 

ジャズ大名 [DVD]

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  筒井康隆原作の短編小説を、名匠・岡本喜八が映画化。原作は既読で、筒井康隆しか描けない不条理と皮肉、ジャズへの愛を詰め込んだ濃厚な作品だった。そしてそれを正確に、かつコミカルに映像化することに成功している。

 

 冒頭はややだれ気味で、どう見てもアメリカではないロケ地で撮影した明らかに芝居が下手なジャズミュージシャンたちのコントを観ることになるが、ここもテンポのいい演出であっさり駆け抜ける。その間も延々鳴り続けるジャズ。思わず身体が動き出す、荒いながらも心地よい演奏。

 そしてやってくる日本のシーン。完全にコントになりきらないのは、主人公の大名役の古谷一行の芝居の巧みさだろう。昼行灯ながら切れ者、しかし真剣にはなりきらない趣味人というあたり、『パトレイバー』の後藤隊長的な魅力。右にも左にも乗り切らないのらりくらりとした態度の中にも「ええじゃないか踊り」が挟まり、幕末の異様かつ不穏な雰囲気が、小汚い城の中だけでも活写されている。

 

 ジャズミュージシャンたちがやってきてからは、地上の決死の闘いと大名そして地下のミュージシャンたちの愉快な演奏が対比して描かれ続ける。音楽が盛り上がれば盛り上がるほど、地上で騒ぎ立てている人間たちが小さく、愚かしく見えてくる。ええじゃないか踊りすら飲み込み、市井の人々も皆巻き込んで、邦楽の楽器すらジャズの一部に変えて、ただただ最後まで、ジャズの演奏は終わることがない。

 この斜に構えた姿勢、絶対にあり得ないはずなのに起きるんじゃないかと思わせてしまう筆力、笑いのベタさとそれをアキさせないテンポの良さは、完璧に筒井康隆の原作を再現しきっている。というより、筒井の作風をそのまま、映像にすることに成功している。空虚な争い事を笑い飛ばすジャズの旋律が、映画を見終えた今も頭から離れない。

 

 右につくか左につくか、戦うか逃げるか、それはどちらでもよい。いや、もう何もかもどっちでもいい。ただ演奏し、歌い、踊りながら、天井を勝手に通り過ぎる何もかもを観ず、知らずのまま、時は過ぎ、時代は変わり、それでも音楽は、人生は終わらない。陽気で悲しいメロディが、そんな思いを伝えてくる。「ええじゃないか」ほど投げやりですらない。きちんと音楽=日々は楽しみつつ、時間を忘れて踊り、狂っていく。これぐらいの気持ちで生きたいものだ、と今こそ思う。

 映画は終盤、完全に壊れる。物語の首尾一貫性などどこにもない。意味なんか何もない。もしかしたら、これを観て怒る人もいるかも知れない。「訳がわからん!」と。でも、それもまたジャズらしい。90分弱の尺の中に、ジャズと笑いを入れ込んだ快作。

『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?(実写)』★★★★☆

 

  アニメ版ではなく、原作の実写版。時間がなかったので短い作品をと思い選択。最初は苦手な作品かと思ったが、この短さならではのじわじわくる魅力があった。

 

「少女を愛でる作品」という系統は存在する。特にアニメ映画では多く、そうした作品に登場する少女(美少女)は、「意志を持っているとは思えず」「男が喜ぶタイミングで微笑み」「セクシュアルアピールを無自覚に行い」「身体も成熟しているがそれにも気づいておらず」「それを男が喜んでいることに気づかない」などなど、男性側から一方的に都合のいいキャラクターとして描かれることが非常に多い。実にうんざりする。

 到底頭が良さそうに見えず、男にこびるような行動を取る人物を「清純な優等生」としてイノセントに描く作品を観ると、現実の女性を観察したことがないのだろうか、自分の脳内のイメージをそのまま垂れ流していて不安にならないのだろうか、と不安になる。意志も知性もあるキャラクターをヒロインに据えて欲しいと心から思う。

 

 最初はこの映画も、その手の一派かと思ったのだ。プールであまりにテンプレ的な美少女的行動をとるヒロイン。男が喜びそうな接触の仕方。眉を顰めてしまう。それに対し、あまりに素直で無邪気でおろかな少年たち。思春期に入るか入らないかの頃の純な恋愛がこれです、と言われたら苛立ちを抑えきれないだろう。オッサンの妄想、と切って捨てたくなる。

 だが、受け取り方としては、「あまりにテンプレ的」と感じたので正しかったのだ。このヒロインは「そういう」子なのだ。男が喜ぶことをわかっていてこんな行動をしているし、その行動はまんまと成功している。「純な恋愛の物語」でもなんでもない。ヒロインは主人公に愛など抱いていない。利己的で打算的な動機から、主人公を弄んでいる。そう言い切ってしまっていいだろう(ラストシーンはもしかすると異なるかも知れないが)。

 

 しかし、それは「身勝手」ではない。身勝手なのは彼女ではないのだ。彼ら、彼女らは小学生で、大人の身勝手さにはあらがうことが出来ない。その身勝手へのせめてもの抵抗がヒロインの行動であり、主人公たちはただ、一方的にそれに巻き込まれただけだ。花火すらも作品中ではどうだっていいモチーフに過ぎない(もちろん、観る角度によって物事は・・・・の隠喩ではあるだろう。しかしそう考えると、「どんな角度から観たところで」というのがこの作品の描き出している残酷な少年少女時代の現実なのだ)。

 このヒロインを非難することはできないだろう。彼女の行動がどれだけ利己的であったとしても、一瞬映って壮絶な芝居をみせた彼女の母親以上に愚かではないし、非難されるべきではない。

 小学校高学年の頃、女の子の行動、発想、感情が謎だらけだった記憶。意味のない衝動だけで友達と遊んでいた思い出。それらを忠実に脚本で再現してみせたこと自体が驚きに値する。きっと現実にこんなことがあったとしても記憶の隅に仕舞い込まれて終わってしまうであろう一日を正確に切り取ってみせた、佳作。

 でも、これ長編アニメにリメイクして何したんだろうね。そのうち観るかも知れない。

『グレムリン』★★★☆☆

 

  昨日に引き続き、80年代の古き良きアメリカ映画、さらにクリスマスムービー、さらにファンタジー、さらに郊外の町並みでのドタバタ、さらにCGを使っていない遊び心あるエンタメ作品、とこれでもかと好きな要素が詰め込まれた作品を鑑賞。

 この通りどこをとっても好きなタイプの作品(『BTTF』『グーニーズ』『ホームアローン』あたりのスピルバーグ制作総指揮系)なのでかなり期待して観たのだが・・・・うーん、期待外れとまでは言わないが、かなり緩い内容だと感じた。

 

 モグワイというキャラのアイディアは面白く、善悪表裏一体の奇妙な生物を飼うというのはいろんなハプニングを期待させる。奇妙な発明家の父親、夫に対して思うところあるけれど何も言わない母親、ライバル感ある同年代の銀行の上司、いたずらっ子っぽい近所の子ども、複雑な家庭環境を感じさせるヒロイン、漫画家志望の主人公。今にも動き出しそうなドラマがひしめき合っている。

 しかし驚くことに、この要素のほとんどが特に動かないまま終わる。別に漫画家としてガンバルという展開もなく、ライバルがモグワイにやられるということもなく、父親の発明は要所要所のギャグ以上にはならず、母親は全く設定と関係なく活躍する。ヒロインの家庭環境も、とってつけたような説明セリフでおしまい。別に成長譚にしろとは言わないが、何だったんだあの前振り、と言わざるを得ない。

 そもそも、モグワイを飼うシーンも非常に短く、ギズモにきちんと愛着を抱く前に物語が展開してしまうので、変貌を遂げるショッキングなシーンも今ひとつ効きが弱い。外見の愛らしさでカバーするにしても、もっと主人公と心を交わし合うシーンぐらいあってもよかっただろう(あったらETになってしまうからやめたのだろうか?)。

 いずれにせよ、人間関係が全く動かないまま物語が終幕するのはいささか異様ですらある。クリスマスファミリームービーとして100分の枠を遵守しないといけなかったのはわかるが、だからこそ人間性の描写をカットして、ひたすらかわいいキャラを動かすほうに振ったのはいただけない。商業的には正しいのかも知れないが。

 

 モグワイのパペットの動きや表情の緻密さ、ストップモーションアニメの併用の巧みさは賞賛に値するのだが、ストーリーと関係しないギャグがあまりに多すぎる。そのシーンだけで笑いが終わってしまうのだ。「モグワイかわいいし凶悪化した後のパロディギャグも面白いからいけるだろ」と片っ端からネタを詰め込んだ挙げ句、消化不良になった印象。一貫した筋立てを作れれば傑作にもなり得たろうに、非常に残念。

『ストリート・オブ・ファイヤー』★★★★☆

 

  エンタメに全振りしてるとしか思えない作品なのに名画ランキングの常連で、かなり以前から気になっていた作品。ロックンロールの寓話、と評しているものが多いがその通りで、ストーリーもキャラクターも極めてシンプル、役者も特別芝居が上手いものもいないけれど、若さと勢いで魅せてしまう現代的な「神話」。

 

 やっていることは『マッド・マックス』シリーズに近いだろう。外部からやってきた用心棒。やることをやり、また去って行く。悪役は「悪人」としか言いようのない、哲学も論理もない悪漢たち。増えていく仲間はほとんど桃太郎のようになんとなくついてくる。主人公を、あるいはお姫様を慕って(ヒロインのファンだという女の子は何のためについてきたのだろう?)。物語としては完全に現代版西部劇。

 先にも書いたように、若手俳優ばかりで棒立ち・無表情の演技が多い。複雑な感情を表現出来ている者は誰もいない(唯一、ウィレム・デフォーだけがさすがの顔面力を発揮して印象に残る。この当時から悪役面だった)。だが、それが余計にこの物語を寓話に仕立てている。桃太郎に複雑な心理描写は必要ないのだ。

 

 映像も、個人的にこの時代、70~80年代の映画の画面が凄く好きなのだが、この映画はまさにその「好き」な要素が詰まっている。『カン・フューリー』でパロディ化されているような部分だ。

 CGで敷き詰めた画面じゃない(そもそもそんな技術ないけど)ので構図の工夫や明暗の演出の妙で飽きさせない。CGづくりの映画だと、どう考えても現実のカメラでは撮影不可能な画面の動きが頻発することが多く、そういう奇抜さで映画を保たせてしまうのにいい加減飽きが来ているのだ。フィルムだからこその絵の目の粗さもまたいい。なんというか、「つるつるしてない」感じ。

 光の使い方のうまさも特筆すべきものがある。白黒映画のような夜の描写。スモークの中から届く光源、影の色気。

 

 登場人物がカットが変わるだけであっさり翻意する、あまりにシンプルな幕切れなど気になるところはいくつかあるが、程よい短さも相まって好印象な作品。マッコイというサブヒロインが、安直なセックスアピールをしない戦う女性キャラとしてかなり魅力的だった。

『ワンダーウーマン』★★★☆☆

 

 2017年の大ヒット作で、DCユニバース初の大ヒット作、ということでかなり期待して見始めたのだが・・・・かなりの期待外れに終わった。

 映画そのものは2時間20分ほどとなかなかの長尺で、舞台は第1次大戦時の欧州がメイン。ドイツ軍の軍人がぺらぺら英語を話すことはもう目をつむるとして、この不利な条件でアメリカで当たったのは珍しいことだと思う。問題はアクション映画、ヒーロー映画として真新しい部分がほぼ全くないというところにある。

 

 マーベルヒーロー映画の特に近年の作品では、「そのヒーロー」「その設定」で描ける「ヒーロー映画ならでは」の問題意識、それも社会問題に目配せした題材がフィーチャーされる。仮にこの世界に強大な一個人というヒーローが存在したとしたらどんな事態が発生するのか、どんな問題が考えられるかを物語の軸に据えている。

 そもそも、ヒーロー映画というのは「荒唐無稽」なものである。たった1人の人間に能力や運命を片っ端から背負わせ戦わせているのだから、まともにやったら馬鹿馬鹿しくなるのがオチだ。だから、あえてコミカルにやってしまうか、あるいは強烈な暗喩としての意味を持たせて寓話にしてしまうかのどちらかしか選択肢は無いと思う。『デッドプール』『マイティ・ソー』は前者、『アイアンマン』『キャプテンアメリカ』は後者に振っている。

 ヒーロー映画ブームの発端となった『ダークナイト』三部作の作風は「シリアス」と言われるが正確には「暗喩」なのだ。ある特定のものに他の意味合いを持たせ、複数の機能を重ね、同様の構造を持つものを連想させるように作り上げられた物語。よって、雰囲気をシリアスにしてコミカルな要素を排したところで、ダークナイトがやり遂げたことと同等の効果は生まれない。

 

 まだDCユニバース作品は『マン・オブ・スティール』と本作しか観ていないが、どうもそのあたりをはき違えているのではないかと思えてならない。島で育ち、近代戦を知らずに育ったダイアナが「悪」をたった1人の軍神とイコール視してそれを殺そうと戦うものの、現実の戦争はそうではなかった・・・・というのはまあいいとして、結局最後にマルスが登場してしまうのには恐れ入った。「出るのかよ!」と言いかけてしまった。せめてもっと全く関係のないポジションの人物、まるきり軍神には見えないようなキャラにして、複雑化した人間の欲望と軍神の不要性を語る、とかならわかるのだが、あの設定の人物にする意味はどのあたりにあるのか。

 第一次大戦をあえて舞台にしたのは、一般人を徴兵し軍部が兵器を用いて戦う近代戦の発端だからなのかな、と思うが(無知なので間違っていたら済みません)、それを使って「闘い=戦争の悪」を描くのなら、たとえばアマゾン族の考える闘いをきちんと冒頭で明快に定義づけし、なんなら小さな争いの描写なども入れつつ、その常識を広い世界にやってきたダイアナが打ち砕かれ、苦悩し、そしてそれでも戦わなければならない、何かを護るために、と段階を踏んで物語を進めていかなければならなかったのではないか。

「愛が救う」が結論になっていたが、また「愛」が出てきてしまったか・・・・と頭を抱えそうになった(『マトリックス・リローデッド』以来のげんなり感)。それまで「愛」についてなんて全然語ってなかったじゃん!としか思えない。

 

 アメリカの観客には「女性のヒーロー」というだけでまだ物珍しく見えるから受けたのだろうか、とすら感じてしまう。セーラームーンプリキュアが戦いまくる作品をさんざ観てきた世代の人間からすると、まだそれらと大差ない(というかもっと単純なこと)を描いているようにしか思えなかった。女性の物語としては『まどマギ』のほうがよっぽど強烈だろう。面白そうだった科学者の悪役もこれといって活躍する前にいなくなってしまうし。マイノリティヒーローという意味では『ブラック・パンサー』もヒットのきっかけは同様だと思うが、こちらの方がメッセージ性としては数段上手だった。

 最後まで飽きが来なかったのはとにかく目を疑うほどのガル・ガドットの美貌が理由だとは思うが、作品が描こうとしている内容からするとここを褒め称えるのも無礼になる。ワンダーウーマン自体のヒーローとしてのアクションの幅もかなり狭く、同じような闘いが終始続いてしまう。これは設定のせいというより、アイディア出しの量が足りていないからだろう。

 正味★2.5ぐらいのところを四捨五入して★3つ、という感じ。ほんと、バットマン周りが好きなだけに、DCユニバースにはもっと頑張って欲しい。